2009年2月3日火曜日

コンゴ民主 出会った人々








いつも誰かが助けてくれる。困難な今回の旅を支えてくれた何人かをここで紹介してみたい。

ムベンバ: キンシャサの下町マトンゲ地区にある安宿Cのマネージャー。キンシャサに来るのは3回目だが、いつもここに泊まっている。前回撮影した写真をあげるととても喜んでくれた。私が夜の散歩に出かけるときには暇な従業員をつけてくれる。私が街中で写真撮影をしているところを私服警官に捕まったときは、身元引受人として迎えに来てくれた。北部コンゴに一人で行くという私を大変心配し、旅行中も(タリーに買ってもらったコンゴのSIMカードを携帯に入れていたので)、そして私が日本に帰国してからも電話をくれた。北部コンゴでは携帯電波が通っているところがほとんどないので私から連絡できなかったのだが、その間何か私におきたかと心配していたようだ。また必ず会いに行かなければ行けない人物だ。

タリー: キンシャサのチャド大使館を探している途中に寄ったカフェで知り合った。コンゴの旧宗主国ベルギーの大学を卒業しており、英語が話せる。夜は家に招待してもらい食事をした。妊娠中の奥さんリンダとはベナンで働いているときに知り合ったという。庭付き車庫つき2階建ての一軒家だが、月々の家賃は400ドルですむらしい。メイドと夜間警備員が一人ずつ。父親は有名な建築士、郊外の実家にもつれていってもらったが、プールつきの豪邸だった。タリーの父親には奥さんが2人。一夫多妻といってもイスラム教徒というわけではなく伝統的に認められていたそう。タリーの兄弟は11人、うち国外に3人住んでいる。妹の一人の結婚式が数日後にあるというが、相手は隣国の大統領候補であるため、誘拐・暗殺の対象になることを家族で心配していた。父親の家には親戚が多数来ていて、西コンゴの共通語であるリンガラ語ではなく、フランス語で話している。子供たちが就職に困らぬよう家庭の方針でフランス語を話すようにしてきたという。もっとも、部族の出身地であるカサイ州の言葉チルンバ語も時々飛び出しているようだった。下町マトンゲに住む庶民の世界とは全く違う上流階級の暮らしぶりを見て、コンゴの多元性を改めて認識した。クリスマスの日には、サンタクロースの帽子をかぶって、親戚の子供たちにプレゼントを届けに回った(私も同伴)。

ソランジュ: キサンガニに行くという私にタリーが友達のソランジュを紹介してくれた。英国系企業に勤務しており英語が話せる。キサンガニの空港のイミグレは、私がわざわざコンゴ川下りの船に乗るためやってきたと言うことを信用せず、「身元引受人」がくるまで私を解放しなかったので、彼女が迎えに来てくれて本当に助かった。キサンガニでは物がなくてチョコレートすら手に入らないというので私がキンシャサのレバノン系商店で買ったチョコレートを上げると子供のように喜んだ。ソランジュの友達が経営しているホテルパームビーチは町一番のホテル。国軍の総司令官がたまたま宿泊していて軍人だらけだった。一泊75ドルの宿泊代金は割引してくれたけれど、私には居心地が悪かった。

ロジャー: ホテルRのマネージャーの息子。
パームビーチをチェックアウトして、80-90年代のバックパッカー伝説の宿オリンピアを訪ねたが、長く続いた内戦で外国人旅行者は全く来なくなり、宿はつぶれていた。往年の宿を知る掃除のおじいさんが片言の英語で懐かしそうに私の相手をしてくれるだけだった。町の人が薦めるホテルキサンガニはコロニアルで雰囲気の良いところ。従業員はとても親切で、毎日ジュースを飲みに行ったが、近くに格安宿があるというので宿泊はしなかった。近くの格安宿Rは、案の定連れ込み宿で、掲示されている部屋のレートは90分単位だったが、一晩15ドルで泊めてもらえることになった。宿RのオーナーLはエキゾチックな風貌。聞いてみると、彼の父はパキスタン人だという。本人もムスリム名を持っていたが、無料教育が受けられるため子供の頃にカトリックに改宗しているという。Lの息子がロジャー。兄弟がオーストラリアに亡命を成功させたため海外への憧れが強い。英語が話せ、街中や郊外を案内してくれた。

ミミ: 船Kevin号マネージャーの娘。写真嫌いのため彼女の写真はなし。彼女は普段南アのヨハネスブルグに住んでおり、船の中で唯一英語が話せたので、込み入った話のときはいつも仲介してもらった。常に料理をしているか何か食べているかと言う感じで、いつも私に一緒に食べろと誘ってくれた。ミミは20才前半だろうか、ミミの旦那の方がマネージャー(36歳)より年上に見えるのでちゃかされているのかと思ったが、ミミとマネージャーは本当の親子だった。
Kevin号はエンジンの故障でなかなか出発できなかった。この船、本来、15人用くらいなのに、自船より大きな「島」(動力のない船体)を二つもくっつけ合計200人くらい乗っていて、その上、4WD車4台その他生活物資満載。アフリカでは荷物超満載のトラックばかり見かけるけれど船でも事情は同じで、こんなに荷物を積みすぎて調子が悪くならないほうが不思議だ。エンジンルームを見たけれど廃船同様でとても直るとは思えなかった。いらだつ私を、ミミは「すぐに直るわ。お父さんは神父(の資格も持っている)だから信用して待っていればいいのよ」となだめ続けた。4日後私は痺れを切らして代わりの船に乗せてもらったが、ミミの言うことを信じて待たなくて正解だった。帰国後ポラン氏にスカイプで連絡して確認したところ、船の修理が完了したのは、私が代わりの船に乗ってからさらに8日たった後だったと言うのだから。順調に行けばキサンガニーキンシャサは2週間でつくというが、ミミは今頃キンシャサに到着しているのだろうか。

ポラン: キサンガニからBumbaまで行くはずだった船Kevin号で知り合った乗客。エンジニアだが、Basoko町まで米を400袋運ぶビジネスマンでもある。大変世話焼きで、漂流地Yakusuでも、村長・警察署長・病院の先生・校長先生などの所に私を案内し、食事を出してもらったりお湯バケツシャワーの手配を頼んでくれた。船の中でバイクを積んでいた男(Issa)がバイクで北部の町Gemenaまで行くことを知ると、私をただで乗せて行ってくれるよう交渉してくれた。

イッサ: 船の中で知り合ったISSA。キサンガニで買ったバイクを船でBumbaまで運びそこから運転して自宅のあるGemenaまで帰る途中だった。バイクに乗せて行ってくれるといわれて私は躊躇した。ISSAは強面、はっきり言って「悪人顔」だったから。けれど奴に乗せてもらって本当によかった。バイクタクシーなんてGemenaに到着するまで見なかったから奴がバイクに乗せてくれなかったら自転車便に乗るしかなかったかもしれないのだ。Issaのバイクの運転は荒くて、何度も転倒したし、振動で腰骨が折れそうになったし、一年分の筋肉痛を味わったけど、奴と一緒に行動することで、さまざまな危険や障害から守ってもらうことができた。たとえば、途中で川があると渡し舟に乗らなければならずその度にぼったくられるのだが、ISSAのおかげで渡し舟の料金は大体半額くらいまで値切れた。また、道中いたるところで、私服の怪しい公務員や警察に停車を命じられるのだが、奴はその命令を無視して絶対に停車しなかった。停車してしまえば、外人の私が言いがかりをつけられ罰金・賄賂・手数料を取られることが確実だから。一度は警察官が4人並んでいるところで笛を吹かれて、「分かった。停車する」、というジェスチャーをとりながら警察官の真横で急加速して逃げた。痛快だった。電気や携帯電波のあるところなら、次の村の警察官などに連絡されて先回りされて逮捕されるところだが、インフラのないコンゴではそういうこともなかった。ISSAのおかげで、道中の宿代も一切かからなかった。1泊目(Basoko)、2泊目(Bumba)、4泊目(Gemena)は、ISSAの親戚の家に泊めてもらった。3泊目も親戚の家なのかと思ったが、実は全く知らない他人の家だったという。最後に金を多く要求されて少しけんかしたけれど、ちょい悪ドライバーと旅ができてとても楽しかった。

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