2009年3月31日火曜日

賄賂を要求されたらどうする?

賄賂を要求されたらどうする?

あくまで旅行者として普通に旅行していて、落ち度がない場合を想定しています。旅行者の間では一般に「賄賂」と呼ばれていますが、実際には「公務員による恐喝」と表現できる場合が多いです。なお、ビジネスマンの目から見た腐敗ランクや対応策は大きく異なることが予想されます。

* 腐敗ランク
1 中部アフリカ 
ぶっちぎりの一番は中部アフリカです。赤道ギニアは、同じ部屋でも担当者ごとに要求。まるで流れ作業、ベルトコンベアに載せられた製品になったような気分になります。カメルーンでは「この国では公共サービスは無料ではない」と開き直られました。カメルーンのドアラで、写真を取っていたら、軍人が「俺を撮っただろ」と言いがかり。私はデジカメ画像を見せて彼が写っていないことを証明するも、逆上した軍人がデジカメを没収。はじめから「手数料目的」の公務員が国中にいる。
2 西部アフリカ CIS(特に中央アジア) 
外国人旅行者に対してではなくバスのドライバーなどに対する要求が多いため、直接の被害を受ける頻度は中部アフリカと比べたら下がります。時々非常に悪質な役人がいます。ナイジェリアのアバで、警察に「クリスマスプレゼント」を要求され、バスの乗客全員で団結して拒絶したところ、バスから降ろされ強制徴収。嫌がらせのための荷物検査を拒んで鞭を振るわれた人もいました。シエラレオネ・リベリアなどはゲリラ・諜報機関上がりもいるので下手に抵抗すると危ないです。
3 東アフリカ 北アフリカ 南アジア
対応しだいで何とかしのげる場合がほとんどだと思います。いくつかのやり取りは、楽しい思い出として残っています。

* 対応パターン
国・相手・自分の状況によって使い分けていますが、大体以下の順で対応しています。
8)以下は、役人が味を占めて他の旅行者を狙うケースを誘発してしまうので、最後の手段としています。

1)レシートをよこせ 出せないなら払えない。
「レシートを出せる正当な手数料なら払いますよ」というのがポイント。一番使うパターン。レシーボ(西)。レシュ(仏)。

2)俺は貧しい
俺は学生なんだ、は年齢的に使えなくなりましたが、中東など老け顔地帯では試して見る価値あり。
荷物が少ない私は、荷物が盗まれて金に困っているふりをすることがあります。こんなに困っている俺からいったい何をとるのだ、と。

3)親しくする
握手して友好を図る。現地語を片言でも話す。あんたはxx(その国の人気俳優や歌手)に似ているね、等言ってみる。ライバル国・隣国の悪口を一緒になっていう。隣の国のポリスは腐っていたけどこの国のポリスは最高だ、など。自分や自国にいい感情を持っている旅人には良くしてやろうという気になるのは万国共通。その国のことをよく知っていてかつ時間が十分にあるときには使える。

4)貴国大使館で、必要ないといわれている
「ビザを取得していればそれだけで入国できる。国境で手数料などを支払う必要は一切ない」とあなたの国の大使に言われているという。たとえ嘘でも。「地元の人が払っているのだからお前も払え」というようなときは、これを使う。すでに貴国大使館でビザ代をこんなに収めているのだと。

5)日本大使館に連絡しろ。させてくれ。
観光立国や日本の援助を受けている国の場合有効。あらかじめ現地日本大使館の電話を控えておくことが大切。大使館に迷惑がかかるので、今まで3回くらいしか使っていません。

6)冗談を言ってみる [公開できません]
イスラム圏では禁句です。冗談が通じる人であることを見極めてから言う必要があります。裏目に出ると怖いです。

7)また、今度。ブクラ インシャーアッラー 
断られても仕方ない、だめもとで言ってみよう、という控えめな要求をされたときのみ使えます。イスラム圏 共産圏で意外と使える

8)代わりに物をあげる
キーホルダー、アニメのシール(役人の子供用に)、あまっているお菓子などなど。
100円ショップで買った3本100円の4色ボールペン
飛行機機内でもらうアメニティグッズも使える。30ドル払えといって値引きにも応じなかったコンゴの女が、エミレーツのエコノミークラスのアメニティ(靴下・歯ブラシなど)であっさりOKになった。
ハードムスリムの国では、女性の写真(ポケットティッシュの裏広告)でもいける。女性は目の大きいモデルにすること。  
タバコを吸う人ならタバコでもOK. 

9)値切って支払う 
口頭で値切ることなく適当な額だけ握らせて立ち去るほうがスマート。地元の人が良くやるパターンだが相場を知っている必要がある

10)言われるままに支払う
最後の手段。特別急いでいるとき。地元の人も高額の支払いをしているとき、など。社交儀礼の範囲内で収める。

個々のエピソードはたくさんありますが、またの機会とします。

2009年3月30日月曜日

1 きっかけは福江島

私が世界を旅したいと強く思うようになったきっかけは、はじめての一人旅で訪れた長崎県五島列島福江島のおばあちゃんとの出会いだったように思います。

長崎といえば鎖国時代にも海外に開かれていた国際色豊かな地。上海、香港、台湾、韓国は目と鼻の先です。高校生だった私は、長崎のエキゾチックなイメージにひかれて、JRの青春18切符を手にやってきました。オランダ坂、浦上天主堂、長崎ちゃんぽん・・・長崎は期待通り異国ムードあふれる町でした。

しかし、そこから船に乗って行った福江島は異国ムードとは無縁の素朴な離島でした。季節はずれの離島は観光客も少なく、宿泊したユースホステルは貸し切り状態でした。ホステルを出てしばらく歩くと、すれ違う人もいません。東京で生まれ常に人に囲まれて育った私にとって、散歩していてすれ違う人がいないことはそれだけで大事件でした。歩いているだけで、究極の自由を手にした気がしました。

究極の自由も長く続きすぎると不安に変わります。店もないし歩行者と会わないので道一つ聞けません。やっと出会えた人は、80歳くらいの小柄なおばあちゃんでした。東京では道で人とすれ違ってもそのまま通り過ぎるだけですが、おばあちゃんは、私に「どこから来たか」と声をかけてきました。「東京から来た」と答える私に、「遠くからよく来た」としきりに感心しています。聞けば、彼女は、生まれてこのかた一度も島を出たことがないといいます。海外や東京はもちろん、県庁のある長崎市にも行ったことがありません。太平洋戦争、長崎に原爆投下、朝鮮戦争、高度成長期、東京オリンピック、オイルショック、冷戦終結・・・激動の20世紀を、本土から隔離された福江島でどのように見つめ、そして感じていたのでしょうか。

おばあちゃんが、福江島を愛しているというのは想像できます。けれど、島を一歩出ればまったく別の世界があるのに、それを見たいと思わないのが不思議でなりませんでした。一度くらい島を出て、東京とか富士山とか道後温泉とか行ってみたいと何故思わないでしょうか。大阪のお好み焼きとか、名古屋の味噌田楽とか、秋田のきりたんぽとか、食べずに死んでしまってもいいのでしょうか。私にはおばあちゃんが不幸な籠の鳥に見えました。ずっと島から出ないで一生を送るなんて、生まれてきた意味がないと思いました。そんな退屈な人生は自分には耐えられないと思いました。

けれど、よくよく考えて見ると、日本列島を出たことのない自分と福江島を出たことのないおばあちゃんにはそれほど違いがないことに気づきました。世界標準の世界地図で見れば、日本列島全体が東の端っこのちっぽけな小島なのです。アメリカ人から見たら私もおばあちゃんも日本しか知らないという点で全く同じです。世界にはいろんな人が住んでいて、さまざまな文化があり、それぞれの暮らしがあるはず。それなのに、それを見ないで日本という島に閉じこもっているというのは、お好み焼きを食べることなく死んでしまうくらいもったいないことだと思いました。

福江島から長崎市に戻る船の中で、おばあちゃんとの出会いを反芻しながら、将来は絶対にいろんな国を見てくるぞと心に決めました。

* おばあちゃんはかわいそうな人?
今思えば、福江島のおばあちゃんは不幸な籠の鳥ではありませんでした。おばあちゃんは、家族と島に生活するだけで満ち足りていて、外に行きたいとも思わない人だったということです。言い換えれば、幸せを内に見つけられた人でした。人は仕事・家庭・子供・彼氏彼女など大切なものに出会ったとき、旅よりもそれを優先するし、旅なんか必要ですらなくなる。私がいつまでたっても旅をやめられないのは、旅よりも大切なものにめぐり合っていないというだけかもしれません。

2009年3月29日日曜日

世界三大仏教遺跡 誰が決めた?

アンコールワット(カンボジア)・バガン(ミャンマー)・ボロブドゥール(インドネシア)の3つが世界三大仏教遺跡と呼ばれることがあります。

私はこの3つの寺院群とも訪問する機会がありましたが、比較してみると以下のとおりです。

・歴史の古さ: ボロブドゥール(8c-)>バガン(9c-)>アンコール(12c-)
どれも比較的新しいものばかりです。法隆寺だってこれらより古いですね。アンコールがけっこう新しいことが私にとっては意外でした。

・保存状態の良さ: バガン>ボロブドゥール>アンコール
ボロブドゥールが密林の中から発見されたのが19cで、修復というより再建築ではないかと感じました。
アンコールは、カンボジア内戦の影響、技術的に稚拙な修復(フランス)のせいでいまいちです。大半の仏像は、頭部が美術品として持ち去られて無残な姿をさらしています。
バガンは、建設以来仏教徒が住み、継続的に修復されてきた寺も多いため、保存状態はとても良いです。

・見晴らしの良さ: バガン>ボロブドゥール>アンコール
バガンの一面見渡す限りの寺院群を夕暮れ時に見ると言葉を亡くします。アンコールは、代々の支配者が、その都度寺を建設していったので、統一感に欠けるし、見晴らしスポットがありません。

こうして見ると、アンコールって、大したことないように見えますが、私が一番感動したのはアンコールでした。崩れかけた寺・木の根に押しつぶされそうな寺など、個々の寺それぞれが、いい味を出しています。クメールルージュの支配のもと弾圧された宗教復活への意気込み、そして村との一体感や生活感があるのも好きな理由です。

他方、ボロブドゥールは、ちょっとがっかりでした。もてはやされているのは、ジャングルの中から近代に発見されたという発掘逸話と世界最南端という地理的な理由からでしょうか。

私が感銘を受けた順に並べると以下の順になります。
アンコール>>バガン>>ボロブドゥール

         
ところで、この「世界三大仏教遺跡」のセレクション、誰が決めたのでしょうか。

私が以前調べた限り、世界三大仏教遺跡と言って騒いでいるのは日本だけです。発信源はガイドブックだと推測しますが、世界に数ある素晴らしい仏教遺跡の中で、なぜこの3つが選ばれたのでしょうか。

欧米のガイドブックにも「世界三大仏教遺跡」のような言葉は出てきません。遺跡は一般に古いものほど価値があるのにこれら「三大」は比較的新しいものばかりで、しかも、メッカやバチカンのように世界的なセンターとして僧や信者を集めたことがないのだから当然でしょう。

アジアの人だって納得いかないでしょう。早くから仏教文化が開花し現在も熱心な仏教国(スリランカやタイ)を差し置いてイスラム教国インドネシアの遺跡が選ばれているのは心外ではないでしょうか。

ボロブドゥール程度の遺跡であれば、人類史上意義のある候補を出せそうな国や地域はほかにもあります。
・仏教発祥地であり世界中から修行僧を集めたインド
・お釈迦様誕生の国で現在も仏教徒のいるネパール
・東アジアの仏教センターであり寺の数では世界一の中国
・チベット仏教本山のチベット
・上座部仏教の要スリランカ
・カイラスを守護していたもう一つのチベット仏教本山ブータン
・世界一の立仏があったアフガニスタン
・仏像が生まれたガンダーラ(パキスタン)
・世界最西の仏教遺跡が発見されたイラン
・対GDP比寺院投資額世界一?のタイ
・仏教の世界進出・ヨーロッパの仏教国カルムイキア 
・世界最北の仏教国ブリヤート
・世界最東の仏教国で最古の木造寺を有する日本
などなど

「三大」を選定するのなら私は、仏教の3大宗派である大乗Mahāyāna・上座部仏教Theravada・チベット仏教からバランスよく選ぶ必要があると思います。
まず、はずすことのできないアンコールは大乗仏教(一部ヒンズー教)の寺院です。
上座部仏教の遺跡なら、ミャンマーのバガンよりもはるかに古い3世紀からの遺跡であるスリランカのアヌラーダプラが適切ではないでしょうか。上座部仏教はスリランカからタイやミャンマーへ伝播したとされています。
チベット仏教の代表は、ジョンカン寺などラサの寺院群で争いなしではないでしょうか。

したがって、私が独断と偏見で三大仏教遺跡群を選ぶとするならば以下の3つです。
・アンコール(カンボジア・大乗)
・アヌラーダプーラ(スリランカ・上座部)
・ラサ(チベット・チベット仏教)

参考:

*仏教の伝播 (Wikiより引用)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99
* 紀元前5世紀頃 : インドで仏教が開かれる(インドの仏教) 
* 紀元後1世紀 : 中国に伝わる(中国の仏教)
* 3世紀 : セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
* 4世紀 : 朝鮮半島に伝わる(韓国の仏教)
* 538年 : 日本に伝わる(日本の仏教)
* 7世紀前半 : チベットに伝わる(チベット仏教)
* 11世紀 : ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)
* 13世紀 : タイに伝わる(東南アジアの仏教)
* 13-16世紀 : モンゴルに伝わる(チベット仏教)
* 17世紀 : カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)
* 18世紀 : 南シベリアに伝わる(チベット仏教)




アンコールワット
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88

バガン

ボロブドゥール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1

*イランに仏教遺跡?13世紀、モンゴル人造営か…龍谷大調査
(読売新聞より引用)

壁面にくぼみが残るバルジュビ遺跡(10月22日撮影)=龍谷大提供

 龍谷大(京都市)の学術調査隊は7日、イラン北西部のバルジュビ遺跡で、「13世紀頃に造営された仏教寺院とみられる石(せっ)窟(くつ)を確認した」と発表した。この時期、イランに勢力を広げたモンゴル人によるものと推定しているが、仏像や壁画、年代を特定できる遺物は見つかっておらず、今後の調査が期待される。

 調査隊によると、石窟で九つの部屋を発見。うち2室の壁面などにくぼみ(高さ約70センチ、幅約45センチ、奥行き約25センチ)が18個あるのを確認した。形状が中国・敦煌石窟で仏像を安置した「仏(ぶつ)龕(がん)」と似ており、仏教遺跡と判断したという。

 イランでは13~14世紀、モンゴル人がイル・ハン朝を建てており、調査隊代表の入沢崇教授(仏教文化学)は「イル・ハン朝はイスラム教に改宗する前、チベット仏教を信仰しており、彼らが仏教を持ち込んだ可能性が高い」としている。

 山内和也・東京文化財研究所室長(イラン考古学)の話「今回の成果だけでは仏教寺院という確証は得られず、今後、イラン政府と協力して正式な調査を進め、さらに物証を集める必要がある」
(2008年11月8日 読売新聞)http://osaka.yomiuri.co.jp/university/research/20081108-OYO8T00281.htm

2009年3月28日土曜日

グルジア 生きていたグルジア正教

* 生きていたグルジア正教

少女が教会の前で立ち止まり、控えめに十字を切って、小走りに走り去っていった。裏通りにある小さなグルジア正教の教会の前の小道だ。

「なんて美しい光景だろう。」
私は金縛りにあったようにその場に立ちすくんだ。アゼルバイジャンから陸路グルジアにやってきた私は、このような光景に出会うことを全く予想していなかったから・・・。

共産革命前まで「イスラム教国」だったアゼルバイジャンは、とても世俗的な国になっていた。街中でお祈りしている人を見かけることはなく、お祈りの呼びかけ(アザーン)を聞くこともなく、モスクすら見あたらなかった。無理もない。ソ連内部の共和国であったコーカサス諸国(アゼルバイジャン・グルジア・アルメニア)では、70年に及ぶ共産主義の下「宗教はアヘン」として弾圧されたはずだから。

「70年という月日はひとつの文化や宗教を抹殺してしまうのに十分だったのだ」
アゼルバイジャンの首都バクーや北部の町ゲンジェを旅しながら、そう私は感じていた。

アゼルバイジャンの隣国グルジアでも、一度葬り去られた宗教が復活していることはないだろうと思った。教会があったとしても観光用に過ぎないのだろうと。 ガイドブックにもソ連時代には多くの教会が劇場や牢屋として使われていたと書いてあったのだ。

だから、グルジアで、お年寄りのみならず小さな少女までが、神に対する敬虔な宗教心を持っているのを目の当たりにして、いたく感銘を受けた。

私は吸い寄せられるように、教会の中に入っていった。入り口は石の階段を少し降りたところにあった。カトリックやプロテスタントでは階段を上って入り口があるところが多いが、下がり階段は正教の特色なのか、それともこの教会特有の点なのだろうか。

薄暗い教会の中は、心洗われるような歌声と、窓から差し込む光で、神々しい雰囲気に包まれていた。いかにも異教徒の私が入っていくのは少し申し訳なかったけれど、私の存在を気に止める人は誰もいないようだ。

石造りの質素な空間には、長椅子は並んでおらず、信者が30人くらい立っていた。石造りの建物の内壁にはイコン絵の小さな額縁がいくつも掛けられている。これまでに見たカトリック・プロテスタント教会とはずいぶんと違う気がする。

黒帽子をかぶり、ゆったりとした黒服を着て、お香の入った金属の入れ物を振り歩いている人が神父であろう。神父は周りを取り囲む信者の額に十字架を当て、そのあと手のひらサイズの箒のようなものを振りかざす。まるで邪悪な気を取り払うおまじないのように見えるがどんな意味があるのだろう。

十字の切り方は、上→下→右肩→左肩の順だから、ギリシャ正教その他の正教(オーソドックス)と同じようだ。カトリック・プロテスタントと順序が異なるのはなぜだろう。

信者は老若男女。家族連れもいる。出勤前に立ち寄ったのか、スーツの男性もいる。女性は黒服が圧倒的に多く、皆スカーフで髪を覆っている。お辞儀している人、ひざまづいている人、左頬を寄せて柱にキスしている人、細長いろうそくに火をつけている人、・・・さまざまで面白い。

熱で曲がった蝋燭がじりじりと音を立てて溶けていくのを見つめながら、中世の雰囲気に浸っていた私は、大きな音とともに不意に現代に引き戻された。

誰かの携帯電話が鳴ったのだ。
(グルジア訪問1回目2000年時の手記。2回目訪問は2006年)


* コーカサスにおける宗教弾圧の程度(私見)
コーカサス3カ国の中で、アルメニア・グルジアのキリスト教国は信心深い人が多いのに、イスラム教国のアゼルバイジャンはとても世俗的に見えた。この違いはどこから来るのだろうか。

思うに、アゼルバイジャンの場合は、トルコ・トルコ系共和国との団結や国境を接するイランの影響を阻害・排除するためにイスラム教を徹底的に弾圧する必要があった。対して、オーソドックス(正教)を通じて影響力を行使しうる隣国は存在しないので、ロシア正教・グルジア正教などの弾圧は徹底していなかった。他にいくつも要因があるだろうが、グルジア・アゼルバイジャンの宗教心の復活度における際立った違いの裏には、このような背景があるのではないだろうか。このあたりの事情をご存知の方、ご連絡いただければ幸いです。

台湾 片倉佳史「台湾に生きている日本」

* 台湾に生きている日本

(アマゾンの内容紹介より引用)
50年間の統治で、日本と日本人が築いた数々の事物は、いまもこの地に生きている。歴史的建造物、産業遺産から、日本語、日本精神まで、台湾が「保存」しておいてくれたという奇跡を、われわれ日本人は見逃してはならない。台湾を愛し、日本の名残を求めて台湾全土を踏破した著者による空前の「日本遺産」ガイド。
(引用終わり)

在台湾10年超のライター片倉氏が、自分の足を使って台湾各地を歩き回り、地元の人に自らインタビューし、徹底的に調べた上で書いた渾身の一冊。地元の人に義愛公として祀られている森川巡査の話、皇民化運動のシンボルになった原住民少女サヨンの話、元日本軍将校であることを隠し蒋介石の軍事顧問として活躍した白団の話、どれもとても興味深い。

後半にまとめられている、台湾語または部族語に取り入れられ台湾に残っている日本語のコーナーも面白い。「テンプラ」(さつま揚げの意味)、「ゆっくりね」、「あいのこ」、「運動会」、「セイロガン」、「シナジン」、「おじさん・おばさん・奥さん・アニキ」、「校長先生」、「ケダモノ」などなど。

戦前日本統治時代に生まれた日本語教育世代は高齢化が進みどんどん少なくなっている。それとともに台湾に生きている日本の文化も失われていくのが非常に残念だ。


* kmの見た「台湾に生きている日本」

初めて台湾に行ったのは95年。まだ羽田から就航していた中華航空でインドネシアに行く途中で台北にストップオーバーしました。当初予定していた台南行きは、台風接近のため諦め、行く先は特に決めず台北から鈍行列車で南に向かいました。戦前の日本を思わせるような懐かしい光景に惹かれて列車を降りたのは、新竹あたりだったと思います。

ホームで写真を撮っていると、台湾人のおじいさんが「日本人ですか」と日本語で声を掛けてきました。なぜ私が日本人だと分かったのか不思議でしたが、もっと不思議に思ったのは、私と日本語を話せることがうれしくて仕方がないという彼の様子でした。日本語教育を受けた世代であるとしても、戦時中の忌まわしい思い出から日本語を聞きたくないと思っているアジアの人たちは多いし(→ 私が韓国で食堂からつまみ出された話)、戦後日本語を使う機会がなければ忘れてしまうはずだからです。

何を話したのかは覚えていませんが、私達が使うことのない古めかしい語彙が混じるほかは、訛りもなくきちんとした日本語を流暢に話すのにとても感動しました。鄙びた駅のホームの端っこでそのおじいさんは、私に日本の軍歌を2曲歌ってくれました。けれど、私が知っている軍歌と言えば、同期の桜と軍艦マーチくらい。おじいさんがうたっている歌は間違いなく日本語で、いかにも国を称えて進軍を鼓舞するような歌詞なのですが、私にはまったく聞き覚えのない歌でした。私の知らない私の国の歌を、かつて支配下においた台湾のおじいちゃんが私に歌ってくれることが、とても不思議であり、とてもありがたいと思ったことを覚えています。

このときの駅は「新竹」だったとかすかに記憶しているのですが、「新竹」と言えば90年代後半には台湾のシリコンバレーと言われた工業地帯。あの鄙びた駅が新竹というのは記憶違いだったのでしょうか。ホームから撮った写真が一枚あるはずなのでそのうちアップします。どこの駅だか分かる方教えてください。

台湾では、片倉氏の本に出てくるような変わった日本語も耳にしました。「べんとう(弁当)」「うんちゃん(運転手)」などです。下の写真は、どこかのお寺で私が撮ったものですが、「喧嘩(けんか)禁止」という注意書きがあります。これも日本統治時代に入った日本語だと思うのですが、いかがでしょうか。それにしても、寺で喧嘩というのは台湾では良くあることなのでしょうか。
(追記)中国語で「喧嘩」 xuan hua は、日本語の、騒々しい、大声で騒ぐの意味だそうです・・・http://blogs.yahoo.co.jp/mautano5/8107918.html
日本語じゃないですね。私の勘違いでした。済みません・・・
 
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2009年3月26日木曜日

サモア 咬まれたらどうする?

サモア 咬まれたらどうする?

・ 発病後の死亡率はほぼ100%で、確立した治療法はない。
・ 毎年世界中で5万人の死者
・ 脳神経や全身の筋肉が麻痺を起こし、昏睡期に至り、呼吸障害によって死亡

なんの病気だか分かりますか?
もう少しヒントを出すと:

・ 英語の病名はRabies、通称Hydrophobia
・ 恐水症状(水などの液体の嚥下によって嚥下筋が痙攣し、強い痛みを感じるため、水を極端に恐れるようになる症状)

南太平洋のサモアは美しい海に囲まれた平和な島々。大型野生動物もすんでおらず、旅行者が身の危険にさらられることはまずありません。そんなサモアで気をつけるべきは2つ。1)酔払と2)犬です。

サモアの首都アピアは夜になると犬の吼える声が響き渡ります。まるで狼のいる森でキャンプしているような気分になるほどです。サモア人でも野犬を問題視しており、サモアのマノノ島では犬の飼育禁止・完全駆除を実施していているくらいです。サモアの北、トケラウ諸島でも犬は禁止で、子豚がペット代わりに可愛がられていました。

トケラウ諸島から戻り、ニウエ行きの飛行機を待つ私は、ウポル島一周ツアーに参加しました。前回サモア訪問では、サバイ島は一周したものの、ウポル島は町歩き・市場巡り・現地人と歓談に徹し、郊外に行く機会がなかったのです。

ツアー参加者は私の他、オールトラリア人5人(1家族と1カップル)。ガイドはサモア人にしては小柄で名前はスキッパ(s)、ドライバーは元マヌサモア(ラグビーのサモア代表チーム)で超巨漢。昔の首長の墓・パラダイスビーチ・小さな洞窟などを通って、景色のいい山道で私たちは写真休憩に入りました。

現地の人が3人、3匹の犬を連れて散歩しながらこちらに近づいてくるのが見えました。首輪がついていることから、野犬ではなく、飼犬ということが分かります。体の大きさは同じくらいで体色もそろって茶色。3つ子でしょうか。可愛い・・・。私はとっさにしゃがみこみ、両手をたたいて、犬に向かって手のひらを広げました。「おいで!」と。

すると、可愛い犬達、30m先から私に向かって駆けよってきました。・・・バウバウと吼えながら猛烈なスピードで・・・。首輪はあるのに紐はついていなかったのです。

血の気が引いた私は、あわてて犬に背を向けてツアー車の裏に回りこんで逃げようとしましたが、時すでに遅く、3匹の犬はものすごい息遣いとともに私に襲い掛かりました。耳や首を咬まれぬよう、頭の後ろで手を組む(=腹筋運動の手の構え)のが精一杯。直立していましたが、無防備な背中と下半身に鋭い爪がひっかかります。そして、一匹が私の左のふくらはぎに噛み付きました。私は「ぉぉぉおお!」と犬のように悲鳴を上げました。

飼い主が合図したのでしょう。すぐに犬達は私から離れ、飼い主の元へ戻りました。

出血を伴うような引っかき傷は体に残りませんでしたが、左ふくらはぎの咬みあとからは血がにじんでいます。痛みはひどくありませんが、致死率100%の狂犬病(冒頭の特徴)が頭をよぎります。

飼い主達は、そのまま山道を登っていきます。ニコニコしながら・・・。私の怪我を確かめたり、詫びに来ることもなく。男3人は、肩の後ろに猟銃を担いでいました。「飼い主」は猟師で、「飼犬」は猟犬だったのです。

ガイドのSが私のところにやってきました。ゆっくり歩いて。
s「あ、ちょっと咬まれた?」
私の生死がかかっているというになんと言う落ち着きでしょう。

s「心配しなくていいよ。サモアに狂犬病(のウィルスを持った犬)はないから」
km「本当?100%?」
s「100%本当だ」
サモア人のいい加減さには慣れっこの私。sの言葉を信用できません。

km「でも血が出ているよ。一応病院で診てもらいたい・・・」
s「大丈夫、大丈夫」

日本のツアーガイドなら、ツアー中断してでも私を病院に連れて行く場面ではないでしょうか。
でも、サモアでは違うようです。2メートル10cm超巨漢マッチョのドライバーが無言で上から見下ろしています。「かすり傷くらいでビービー言うんじゃねぇ」とでも言うように。

Sの次の行動に私は自分の目を疑いました。
ポケットからタバコを一本取り出し、巻紙をほぐして、中のタバコの葉を手のひらに広げ、私の傷口を前にしゃがむと、その葉をつまんでぺたぺたと傷口に貼り付けたのです。
s「これで大丈夫だから」

サモアに伝わる民間療法なのでしょうか。タバコ=ニコチン=毒、というイメージしかない私にとって、「タバコの葉療法」は迷信としか思えません。

けれど、サモアの病院じゃ、ワクチンなど置いていないかもしれないし、今日中に大病院のあるオーストラリア・ニュージーランドに出国できたとしても到着までにはウィルスが体内に回ってしまっているから、今さらじたばたしても仕方ない(km注:これは誤解です)。夜間あれだけ犬が吼えるこの島では毎年何人も犬に咬まれている筈で、それでサモア人が狂犬病の心配はないと言うのだから信じてよいはず、と自分に言い聞かせました。

ツアーのオーストラリア人達は、「あなた、大丈夫?」と声をかけて心配してくれましたが、内心おかしくて仕方がなかったのではないでしょうか。彼らにしてみたら、猟犬にちょっかい出して咬まれた間抜けな東洋人の話は土産話にもってこいです・・・。

咬まれてからワクチン摂取することもなく約3年がたちましたが、幸い狂犬病は発病していません。Sの言うとおり、サモアに狂犬病ウィルスはないか、または、タバコの葉が効いたのでしょう。

(サモア訪問 2006年5月、6月)


*犬に咬まれたときの正しい対応
1)とにかく洗浄
帰国後分かったことですが、仮に咬んだ犬が狂犬病ウィルスに感染していたとしても、狂犬病ウィルスは弱いので、傷口をすぐに石鹸で洗えば死滅するようです。ワクチンが入手できないようなところでも、パニックに陥ることなく、すぐに石鹸で洗うことを心がけましょう。
2)できればワクチン
また、ウィルスが体内に入ったあとでも潜伏期間の間にワクチン注射を受けられれば発病は回避できることが多いようです。100%死ぬというのはあくまで発病後のことです。私は、咬まれたあと急いで血清を打たないと死んでしまう毒蛇の場合と混同していたかもしれません。

詳しくはWiki参照。狂犬病患者の写真なども掲載されています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E7%8A%AC%E7%97%85

* タバコの殺菌作用
なお、タバコの葉には、殺菌作用と止血作用があるというブログ記事を見つけました。この記事が正しければ、ガイドのsの対応はまさに適切だったことになります。しかし、「タバコ 殺菌作用」で検索して見つかったのはこの記事一本だし、医学的根拠があるか疑問です。http://furifuri1029.blog85.fc2.com/?mode=m&no=5

* 犬に咬まれないための対策
ガイドのsに言われました。
「あのね、猟犬に背を向けたら追いかけられるんだよ。逃げる獲物を追うのが彼らの仕事なんだから。」
猟犬と分かっていたら私はそもそもちょっかい出していないのですが・・・。(鳥を狩るための猟犬なので特に大型ではありませんでした。)
1)戦う
猟犬ではなくて、普通の犬でも背を向けないほうが良いようです。石を投げるか、ぶつけるふりをするのが効果的らしい。石がなくても手持ちのコインでいけるかも知れません。
傘や杖や落ちている枝も役立つかもしれません。
でも私は闘って犬に逆切れされるのが怖いです。
2)守る・逃げる
とっさには難しいでしょうが、手ごろな木があったら登ってしまう手もあります。
短パンTシャツより、長袖長ズボンの方が身を守れるでしょう。私は事件当日短パンをはいていてふくらはぎは無防備でした。
逃げ場がなければ、首を噛み切られないように、首から上を防御することに徹したほうがよいかと思います。ジャンパーがあればそれを頭からかぶってしまうとか。
しゃがんで丸くなったら餌食になるだけだと思うので、私のように直立していた方がよいのではないでしょうか。たまたまかもしれませんが、この事件で上半身は無傷で助かりました。

* サモア人は超でかい。
サモア・トンガ・フィジーは小国ながらラグビー大国です。それもそのはず。男も女もやたらでかいのです。サモア人はとくに身長のみならず体重がすごい。角界で言えば、小錦はサモア系、武蔵丸はサモア/トンガ系。格闘家のマークハントはサモア/NZ、プロレスラーのザ・ロックもサモア系です。

* アンゴラ 野犬に囲まれる恐怖
25年続いた内戦を経てやっと平和になったアンゴラ。アンゴラの首都ルアンダには、冷戦下ソ連の影響を強く受けた無機質でビルが立ち並ぶ。ビルには砲弾、内戦の爪跡がくっきりと残されています。それらのビルがモナコ・フランスのコートダジュールのような海岸通に並んでいるのがシュールでした。メインストリートを抜けて、細く伸びた岬に入ると、店も人も少ない寂れたビーチが広がります。タクシーを降りて海辺を歩こうとタクシーを降りようとした私は、あきらめて車内にとどまることにしました。夥しい数の野良犬が、吼えながら、タクシーの扉のところに終結してきたのです。20頭はいたのではないかと思います。ここでタクシーを降りたら、サメの泳ぎ回るビーチに飛び込むようなもの。私はタクシーから降りずに、窓から写真をとって移動しました。

2009年3月25日水曜日

変わった名前

変わった名前編

コンゴ民主キンシャサ
私をいろいろ案内してくれたTにはコンゴ人でありながら中国語の名前の女友達がいるそうだ。両親がその発音が綺麗だと気に入ってつけたのだそうだ。なんという名前なのか聞いて見ると、「Sayonara」・・・おいおい、それは日本語じゃないか。意味も考えて名づけて欲しい。

ソロモン諸島ホニアラ
ソロモンのタクシードライバーは皆陽気で英語が話せるので、世間話が弾む。また会おう、と言って教えてくれた彼の名前は「デンマーク」。お父さんの友達にデンマーク人がいたらしい・・・。

南アケープタウン
彼の苗字は「April」。アパルトヘイト全盛期に白人の父と黒人の母との間に生まれた彼。白人の父の苗字での出生届出を役所が受け付けなかったという。そこで誕生月が4月の彼の苗字がAprilになったのだ。混血児の苗字としては誕生月の名前が良く用いられたらしい。

ナウル
私がオープンしたばかりの政府観光局を尋ねたのは、所長の第6子が誕生した直後だった。観光局初訪問の外国人ということで、私の苗字を子供の名前につけることになった。冗談で済んだのか、実際に届け出てしまったのかは分からない。

コンゴ民主キサンガニ
ボートで知り合った格闘技マスターの男。私を相手に実演してくるが、男の体の動きが速すぎて手も足も出ない。こんな奴に襲われたら一瞬で殺されるだろう。この男の名前を聞くと「Dieu-Mercy」(神様ありがとう・神の慈悲?)。なんとも似つかわしくない。

ニジェール ニアメ
バスターミナルで会ったガンビア出身の青年の名は「Happy」。仏語圏ニジェールで英語を話してくれる彼の存在はありがたかった。ガンビアでは仕事が見つからないからニジェールに来たというが、ニジェールは世界最貧国の一つ。

コンゴ民主キサンガニ
リサラ(独裁者モブツの出身地域)出身のなぞの商人。武器でもウランでもなんでも入手できるから取引相手の日本企業を紹介してくれとうるさい。目つきが鋭く腹黒そうな彼の名前を聞いて笑うしかなかった。名前は「Innocent」(イノサン、純朴)

ジンバブエ ハラレ
バスが止まったドライブインの軽食屋のキッチンでモシ(キャッサバを蒸して捏ねたもの)を作っていた女性。笑顔が素敵な彼女の名前は、「Pretty」。若いうちはいいけど、50,60歳になってその名前は・・・

イラン テヘラン
日本語で声をかけてくれたイラン人。40歳過ぎの腹の突き出た髭親父なのに、瞳は子供のようにきらきら、天使のような笑顔。私の荷物を担いで目的地まで案内してくれた。富山で出稼ぎしていたこのおじさんの名前は「浜さん」。多分本名はアハマドで、富山の人には覚えにくかったのだろう。

パキスタン クウェッタ
アフガン難民の少年の名は、「ヤセル・アラファト」だった。対イスラエル闘争のPLOリーダーの名前は、対ロシア闘争に明け暮れるアフガニスタンで人気があったのかもしれない。2001年以降は「ビンラディン」が人気になっているかも。

インド xx市
同級生だったインド人A君。苗字はインド人には多い「Kumar」。ところが、彼が言うに、本当の苗字は違うのだという。パスポートを受け取ったら役所の手違いでこの名前になったのだという。以来公式書類には「Kumar」と書かなければいけなくなったA君、一人だけ家族と違う苗字になってしまった。IncredibleIndiaである。

ガーナ アクラ
道案内してくれた少年の名前は「コフィ」。その友達の名前も「コフィ」。ガーナ出身の国連事務総長「コフィ・アナン」にあやかってブームになったのだろう、と一瞬思った。しかしよく考えると、その子達が生まれた頃にはアナンはまだ事務総長ではなかったはず。おかしいな。あとで知ったところでは、ガーナでは生まれた曜日で名前が決まる(但し民族にもよる)。コフィは金曜日生まれの男の名前だ。

インドネシア バリ
バリのインターネットカフェ。フルーツ生ジュースを注文できるお気に入りのインターネットカフェ。顔なじみになったマネージャーの名前は「ワヤン」。バリにはやたらとこの名前が多いね、というと教えてくれた。ワヤンは長男につける名前で、日本風に言えば「太郎」。次郎・三郎・・・にあたる名前もあるそうだ。面白いのは、6男になると再び「ワヤン」に戻るそうだ。兄弟が6人以上の家族では同じ名前の子供がいることになる。

ほかにもたくさんありましたが、思い出したときに随時追加します。

チベット 拷問のビデオ

中国政府がユーチューブへのアクセスを全面禁止したようですが、その原因と思われるビデオ画像がこれです。そのうち削除されてしまう可能性があるので、見ておくことをお勧めします。
第二部はかなりグロテスクなので、注意して見てください。



日本語による解説は以下を参照
http://jp.epochtimes.com/jp/2009/03/html/d66421.html

私がチベットを訪問したのは2007年3月。暴動がおきる1年前でした。チベット入境許可証は成都のホテルを通じて取得し、国内線飛行機でラサに入りました。治安は安定しており、観光は問題なくできました。ポタラ宮の前には天安門式の広場と中国庭園が完成していますが、かつてはポタラ宮前はチベット式の住居が一面に並んでいたようです。あるホテルを訪ねてかつてのラサ市内の様子を見せてもらうことができました。今では弾圧されて見られなくなってしまったかもしれません。
飛行機で一気に高地ラサに入ったため高山病になり発熱しましたが、心配していませんでした。ボリビアのラパスで高山病になったときと同様、低地におりれば即回復することが分かっていたからです。実際陸路ネパールに抜けると、体調は一気に回復しました。

2009年3月24日火曜日

ウクライナ 搭乗拒否その2(外人隔離編)

ウクライナ 搭乗拒否その2(外人隔離編)
モスクワ経由でベラルーシ入りができなくなった私。時間のロスが最も少ない代替案はシンフェロポリ→キエフ→プラハ(チェコ)→ミンスク(ベラルーシ)。
キエフまでの国内線チケットを入手し、チェックインを無事済ませ、搭乗券をもらう。数時間遅れたが、同日中にシンフェロポリを出発できる。やれやれである。

チェックインは、コンピュータベースではなかった。けれど、チェックインカウンターの係員は、搭乗券を発行するときには、デスクの機内席表と搭乗券に、一人一人の座席シール(1Cとか4Bとか)をそのつど張っていくシステムを取っていた。これなら、搭乗券の重複発行のミスは防げるし、誰がどこに座るのかも確定できる・・・はずである。

軽い荷物検査手続きを済ませ、待合室で待機する。ロシア語で搭乗案内が流れる。英語はなし。ウクライナ語はあったかもしれないが私には分からなかった。乗客は待合室から飛行機へ徒歩で移動。乗客は次々と機内にステップ(梯子)をのぼり機内に入っていく。

ふと気づくと、3人組の男達が、制服を着た職員(共産主義色のつよい軍人のような制服、あせた紺色)につれられてステップの脇に移動させられている。

何があったのだろう。何かの手違いか。それとも彼ら指名手配されている犯罪者だろうか。

搭乗は続けられる。私の番だ。ところが、軍人のような制服の職員は、ステップに片足をかけ、私を機内に入れまいとする。そして、別の職員が来て、私も3人の男達と同様、ステップの脇に連れて行かれる。「なぜ?」と聞いても返事はない。英語は通じないし不可解だが、これは何かいわれなき嫌疑が自分にかけられているのではないかと恐ろしくなる。「外国人が爆発物を所持しているという匿名の情報が寄せられた」、なんてことがあったら最悪だ。

私とともに待機を命じられた3人は、やはり外国人のようで、ステップ脇の職員に対して英語で猛烈な抗議を始めている。「どういうことなのか説明しろ。なぜ待たされるのだ。ウクライナ人はどんどん乗っているじゃないか。」 職員達はだれも英語が分からないのか、一切無視。体を張ってわれわれが飛行機に乗り込むのを阻止している。状況は読めないままだが、隔離されたのが私一人だけでなく他の外国人と一緒であることに、ひとまずの安堵を覚える。

黙って事態を見守っていると、もう一人の西洋人と思われる男が同様に搭乗を拒否される。しかし、この体格の良い男、職員の制止する腕を無理やり振り切り、ステップにかけた職員の足をまたいで、機内に駆け込んでしまった。なんと大胆な。旧共産圏の怖さを知らないのだろうか。私は、沿ドニエストル共和国(ロシアの傀儡国)とウクライナの陸路国境を越えるにあたり、旧共産圏の理不尽を嫌というほど認識させられたばかり。とても抵抗しようとは思わない。

私は、職員が男を機内から無理やり引きずりおろすのではないか、とはらはらしながら見ていたが、そのような事態にはならず、職員は何事もなかったように搭乗手続きを続けた。

やがて、私を含めた外国人4人だけを残し、全員の搭乗が完了した。職員は、ステップを機体から取り外し、機内にしまいこもうとする。

すると烈火のごとく怒ったのが、脇に待機させられている私達4人の中の白人2人である。ステップを両手でつかみ、駄々っ子のように体重をかけぶら下がって、ステップ仕舞い込みを阻止しようとする。「なぜ、俺達を乗せないのだ。搭乗券は持っているし、座席も割り振られているじゃないか。外国人差別だぞ」と大声で叫ぶ。

お怒りはごもっともだが、40歳過ぎの紳士とは思えぬ大胆な行動に、私は唖然とするばかりだ。アジア人の私は、「ウクライナはそういう国なんだよ。西欧のようにはうまくいかないよ」とあきらめ顔。もう一人のインド人顔の男もそう思うのか、行動には加わらず、立ち尽くしている。融通が利かない国インドから来た人からすれば、受け入れられない程度の理不尽ではないだろう。

すぐに警察官らしき男達が5,6人駆けつけてきた。私は、逮捕劇や発砲の巻き添えをくわわぬよう、ひとり厳重警戒態勢に入る。白人達はピストルを腰にさした警察官に囲まれながらも抵抗をあきらめない。警察官らはついに実力行使にでて、白人2人をステップから引き剥がした。

私達外国人4人は、手錠などははめられなかったものの、警察官に囲まれながら、待合室まで連行される。待合室にたどり着くと、職員のうちの一人が私達4人に対して「次の便でとべるかもしれないので・・・」と片言英語で説明する。

飛べる「かも」では怒りが収まらないのが白人2人である。「飛べなかった理由をきちんと説明しろ」「お前らの名前を教えろ」「英語も分からないのか。英語分かる奴を呼んで来い」「外交ルートを通じて正式に抗議する」極めつけは、「ウクライナなど、100年たってもEUに加盟できない。」とすごい剣幕である。

事情は良く分からないが、政治家や、空港のお偉いさんが、急遽キエフに飛ぶ必要があり、4-5席分足りなくなってしまったのだろう。そして、私達を選んで飛ばせなかったのは、その片言英語の職員個人の判断ではおそらくない。権威ある上の者から指示を受けてそうせざるを得なかったのだろう。ソビエト連邦のもと70年間共産主義にどっぷり浸かってきたウクライナには、我々「西側」の人間の理解できないような制度・体質・考え方がまかり通っているのだ。

怒りの収まらない白人たちの声を聞きながら、私は、複雑な気持ちになった。
1 私達に嫌疑がかけられているわけではなかったことに対する安堵
2 流血事件に発展しなかったことに対する感謝
3 搭乗拒否に対する怒り
4 飛べなかった理由や救済手続きの英語説明がないことへの落胆
5 罵声を浴びせ続けられる航空会社の末端職員に対する憐憫 

それにしても、席が不足して全員を乗せられないとして、なぜ外国人が選別されて残されたのだろうか。なぜ、航空会社の決定権者がこのような措置を取ったのだろうか。

1)外国人差別: 共産主義下で醸成された外人不信・外人嫌悪(ゼノフォビア)、自国民を優先するという国民気質・愛国心、
2)選別の容易性: 多分ウクライナ人の中から一部を選別することは困難だが、外国人なら容易に特定できる
3)クレーム対応: ウクライナ人を搭乗させないと役所や航空会社に抗議が来て面倒くさいが、一時滞在と思われる外国人を排除してもクレームを受けにくい

外国人だけ選んで排除されたという外形的事実に着目すれば、1)外人差別と考えるのが素直だ。だが、一歩踏み込んで見ると、ウクライナの国民性としてゼノフォビアが強いとは聞かないし、私自身本件を除いて外国人だから特別な扱いを受けたことはない。常識的に考えて、2)や3)ではないか。

もし、3)クレーム対応が本件の背景にあるのだとしたら、ウクライナの意識改革・民主化が進んでいる証ではないかと思う。非民主国家・独裁国家では、庶民のクレームなど怖くないからだ。

非民主国家は、こういうときに自国民よりも、外国人をむしろ優遇するのだ。キューバやイランがいい例だ。イランは、運賃が激安なので、飛行機満席は日常茶飯事だが、外国人をウェイティングリストの上位にしてくれることが多く、満席にもかかわらず飛べることが多い。シラーズ→バンダルアッバス(1996)、タブリーズ→マシャド(2005)、いずれもそうだった。キューバも、空席がないといいつつ、特別手数料を支払うことで、党幹部用にキープしてある席を譲ってもらうことができる。ハバナ→サンチャゴ(2006)など、満席と言われていたのに、実際に満席なのは機内後半部のみで、機内前半部は私と党幹部風男2人しか座っていなかった。外国人にとってはうれしい優遇制度だが、それが国民・庶民の犠牲に成り立っているかと思うと、やはり非民主的だという印象を抱かずにはいられなかった。

ところで、今回の飛行機に乗ろうとしていた外国人は以下の通りであることが判明した。対応から国民性が読めるようで興味深く思った。
アメリカ人1、スウェーデン人2、インド人1、日本人1。

アメリカ人 制止を振り切り腕力で無理やり搭乗。さすが世界最強国の国民。GWブッシュ譲り。
スウェーデン人 不合理な処分には断固抗議。口頭のみならず行動を伴う。バイキング譲りの勇敢さ。
インド人(国籍はスウェーデン) 口頭での抗議はするが非暴力に徹する。ガンジー譲り。
日本人 お上には抗議しない。事なかれ主義。傍観するだけ。

シンフェロポリを出発できたのは日付変わって午前一時。他社便に何とか乗せてもらう。キエフではホテルが満室ばかり。2時間さまよってやむなくチェックインした高級ホテルは一泊2万円。スウェーデン人3人とは偶然一緒のホテルで、翌朝のビュッフェで顔をあわせた。

ウクライナ 搭乗拒否その1(出国拒否編)

ウクライナ 搭乗拒否その1(出国拒否編)

私はウクライナ国のクリミア半島にあるシンフェロポリSimferopolからベラルーシ国のミンスクMinskまで行くチケットを購入した。ルートは以下の通り。

シンフェロポリ(ウクライナ国)→モスクワ(ロシア国)→ミンスク(ベラルーシ国)

この場合、ロシアのビザは必要だろうか。

原則として、日本人がロシアに入国するには事前にビザを取得していく必要がある。しかし、近年、ロシアでは、トランジットの場合の特例ができた。

つまり、A国からB国へ乗り継ぐ際、モスクワのシェレメチェボ(SVO)2で乗り換える場合、事前にロシアビザを取得してこなくて良いのである(トランジット特例)。

私はロシアに入国する予定はなく、ただモスクワのSVO空港を利用して、ベラルーシ国へ抜けるだけなので、まさにこのトランジット特例の適用があるはずである。ヤルタYaltaの町でチケットを購入した際にもこの点調べて確認してもらっていた。

ところが、シンフェロポリ空港のチェックインカウンターでは、ロシアビザがない私の搭乗を拒否した。どういう理屈かというと、確かに、トランジット特例というものはあるが、ベラルーシはロシア国内と同視されるので、「第三国へトランジット」することが前提のトランジット特例の適用はないというのだ。

ベラルーシは、国連に加盟する独立国であり、ロシアももちろん承認している。ソ連崩壊によりロシアとベラルーシが別国になってから15年以上たっている。にもかかわらずなぜ国内扱いなのか。納得できない。

ウクライナ人である空港職員の人当たりは悪くなかった。上司と掛け合ってくれ、という私の要求にこたえて、どこかに電話して話をしてくれた。そして、申し訳なさそうに言った。

「貴方の言うことはもっともです。ウクライナであれば、そのようなルールはないでしょう。しかし、これはロシア国のルールなのです。ロシア国がビザを持っていなければ搭乗させてはいけないという以上、私達は貴方を搭乗させることはできないのです。」

急いでYalta町の代理店に電話を入れて仲介を依頼するも、私を搭乗させられないという結論は変わらず。本来Yalta市の代理店まで戻らないとチケット払い戻しができないというところをシンフェロポリ市内の支店でできるように便宜を図ってもらうのが精一杯だった。

* ベラルーシ入りは意外に面倒
日本人の場合ビザが必要だが、日本でトランジットビザを取得していく場合にはあらかじめ日程を確定しないといけないので使いにくい。時間があれば隣国で取得して陸路入国できるかもしれない。けれど、予定がおくれて時間のなくなってしまった私は空路入国にせざるを得なかった。空路であれば到着時に空港でビザが取れる。問題はウクライナ-ベラルーシ間の直行便が非常に少ないこと。両国民間はバスや電車で移動することが多いからだろう。第三国経由となると乗換えが一度で済むモスクワ経由が便利だが、それが駄目になったので、キエフ・プラハ経由でベラルーシに空路入国せざるを得なかった。

2009年3月22日日曜日

フランス パリのアラブ人街ハマム

パリのハマム

メトロのブルーラインは凱旋門など観光地をカバーしているのでパリに来ると度々使う。
パリ北駅からBarbesRochechouartの駅でメトロのブルーラインに乗り換えるときホームから見えるネオンサイン。「Hammam」。

ハマムとは、中東・北アフリカで良く見られる大衆浴場のこと。旧仏領マグリブ諸国(モロッコ・アルジェリア・チュニジア)からの移民が多いフランスにハマムがあっても不思議ではない。けれど、夜にはピンク・紫・緑のネオンが怪しく光るその店は風俗店のようでもあり、会員制クラブのようでもあり、なにかのアジトのようでもあり、見るたび気になっていたのだ。

チャドビザ申請に行った帰り道、旅行代理店に用事があったので、たまたまBR駅で降りた。用事を済ませ、まだ明るいうちなので、例の店が本物のハマムかどうか確かめてみることにした。真冬のパリは私には寒すぎる。風呂に入って体を芯から温めたい。

店の前まで歩いて来たが、ハマムの看板の下の大きな木製の外扉は閉まっている。ドアノブ付近には「10時から19時まで」と小さな貼紙。営業時間帯のはずだが、出入りする人もない。やっぱり何だか怪しい。ヤクの受け渡しにでも使われそうな雰囲気だ。いったん周りを散歩して後で戻ってくることにした。

あたりはアラブ人街で、アラブ風装飾品、アラブ雑貨(水パイプ・タジン用の食器など)やアラブの音楽CD・軽食店などがごちゃごちゃとしており、活気があって楽しい。アラブの民族服を着ている人は5%くらいだけれど、店員や歩行者も8割方アラブ人という感じだ。

雑貨店兼電話屋に入ってジュースを買う。店内には電話ブースが並んでおり、大きな声がブースの扉越しに店内に響いている。故郷の家族に国際電話を入れているのだろう。西ヨーロッパの町どこでも見られる光景だが、特殊なのは、アラブ人しかいないこと。カウンターに置かれている募金用の缶にもアラビア語しか書かれていない。

マグリブ諸国出身と思われる店員はシムカードの使い方が分からない客にかかりきりで、私と話す余裕はない。

店内を見回して私は彼らがアルジェリア人だと確信した。カウンターの奥にジダンのポスターが貼ってあるのだ。アルジェリアとライバル意識の強いモロッコ人ならこれはない。

フランス・サッカー界のヒーロー、ジダン(Zinedine Yazid Zidane、通称ジズー)はアルジェリア系の両親を持つ。本人はフランス生まれフランス育ちだが、アルジェリア人にとってそんなことは関係ない。ジダンはすべてのアルジェリア人の誇りであり、彼らの中では生粋のアルジェリア人なのだから。

喉を潤したところで、例の「ハマム」に戻ったが、外扉は閉まったまま。どうしたものか、と思っていると、左隣の雑貨屋のアラブ人のお兄さんが声を掛けてきた。

男「どうした?」
km「ねえ、ここはハンマームなの?」
「m」の音を思いっきり力ませて、体をこするジェスチャーを付け加えて尋ねる。そうしないと、アラブの国々では、トイレに連れて行かれたり、鳩料理を食べたいと勘違いされてしまうことがあるのだ。
男「そうとも」
km「開いているの?」
男「開いているさ。横にあるブザーを押して入るんだよ。」
まともな店なのか彼に聞いてから・・・と思っていたが、世話焼きのアラブ人はすでにブザーを押してしまっていた。

電子ロックが解除された。私は彼に礼を言って、重い外扉を開けて中に入る。薄暗い道が奥へ続いている。観光客が来るのは場違いな雰囲気だ。闇の中で黒いアラブ服の太ったおばちゃんとすれ違い、一瞬ぎょっとするが、もっとぎょっとしたのは彼女の方かもしれない。20mほどまっすぐ進むと、正面に入口らしいドアが。

ドアを開けると中は明るく、50歳くらいのアラブ人のおじさんが、番台のようなところに座っていた。温かく湿った空気が漂っている。色気のない庶民的な雰囲気。重い扉の向こうに別世界が広がっていた。

番台の後ろには、入場料がフランス語で書いてある。

「入場料21ユーロ
Gommage5ユーロ」

入場料だけで約2700円は、ちょっと高い。外に貼ってあったなら入らなかったかも、と一瞬後悔するが、ここまで来たら引き下がれない。ゴマージュという単語は初めて見たが、アカすりマッサージのことだろう。

料金は後払いのようで、ロッカーの鍵を渡され、地下に行くように言われた。アラベスク模様のタイルの階段をおりていくと、区立体育館のプールのロッカー室のようなところに出た。

風呂上がりと思われる短パンの老人客がいたので、ロッカーの鍵を見せて場所を聞くと、ここだよ、と連れて行ってくれた。

老人「君はベトナム人?」
km「いや、日本人です(苦笑)。旅行者です。おじさんは?」
老人「アルジェリア人だよ。」
km「パリには長く住んでるんですか?」
老人「そうだな、30年くらいだね。」
30年というと、アルジェリア独立後の移民ということになる。アルジェリア独立戦争を体験しているはずの世代の老人。100万人もの死者を出しながらやっとフランスから独立を勝ち取ったのに、アルジェリア人がフランスに流入し続けている事実をどう受け止めているのだろうか。そして本人はなぜ故郷を捨てて移民したのだろうか。もっと話をしたかったけれど、まずは風呂だ。

km「ところで、ここははどんな感じですか?」
老人「とってもいいよー。今日は朝からここにいたんだ。」
もう午後3時なので10時の開店からは5時間だが、そんなに長くいるようなところなのだろうか。

私は服を脱ぎパンツ兼用の短パン一丁になると、ロッカーに鍵をかけ、鍵を手首に巻きつけて、裸足で浴場に向った。

ロッカーを出て左に行くと、風呂上がりに寝転がって休める空間。北アフリカのハマムでよく見るタイプだ。シーツのようなものを巻きつけてごろ寝している人が2人。

奥の扉を開けると、もわっと温かい蒸気。いびつな50畳くらいの空間に、アラブ人ばかり15,6人の客がいた。若い人も若干いるが、50代60代が中心だ。短パンやブリーフをはいている人もいれば、店のビニール製腰巻をまいている人もいる。

室内は伝統的なハマムの形状ではないし、採光窓もないけれど、ピカピカで清潔。本物のハマムだ。体を洗っている人、寝そべってマッサージしてもらっている人、少し高くなっているところで気持ちよさそうに寝ている人。

さらに奥の扉を開けると、スチームサウナ。中仕切りで隔てられた6畳くらいの空間が2つ。ハーブのにおいがする。白いタイルの上で寝ころがっている人にならって私もしばらく温まる。

ひと汗をかいたところで、アカすりをしてもらおう。タンクトップを着て先客の体をこすっている従業員に、アカすりのジェスチャーをすると、「分かった。ちょっと待て」。

客同士は、常連なのだろう、顔見知りが多いようだ。フランス語で話している人も若干いたが、ほとんどはアラビア語で話している。北アフリカのハマム同様のなごやかな雰囲気。昔の日本の銭湯もそうだっただろう。

奥まった空間では、アラブ式トレーニングをやっていた。

「アラブ式トレーニング」とは何かというと・・・。トルコ・イラン・アラビア半島のハマムではまったく見ないが、北アフリカのハマムでは、ハマム従業員と組んで運動している客がいるのだ。ハマムの従業員がにわかトレーナーになって、ジムを兼ねているわけだ。

リビアの温泉で見たトレーニングは壮絶だった。プールサイドで、仰向けになった超肥満体の客が、トレーナーと向かい合い手を握り合って、トレーナーをその客のももに乗せたまま、腹筋運動をしていた。もっとすごかったのが、プールの中。温泉プールの底に客がうつぶせで寝そべり、それを浮かんでこないようトレーナーが足で押さえつけていた。

このパリのハマムで見た客とトレーナーもとても熱心。客は40過ぎと思われるが、腹筋が割れている。柔軟・腹筋・背筋など見慣れた動作は勿論、珍しい体操も。うつぶせになった客は両手を頭の後ろで組んで、トレーナーは馬乗りになって肘を持ち上げ、左右に捻ったり。トレーナーが客を逆さ吊りしてみたり。こんな湿度・温度の高いところで激しい運動をしてのぼせないのだろうか。会話はアラビア語なのに、体操の号令だけはフランス語なのもおかしかった。

さて、私のアカすりの番だ。私はすでにのぼせてふらふらする体を床に横たえた。韓国式マッサージのようなアカすり台があるわけでも専用部屋があるわけでもない。客が体を洗ったり談笑している真ん中のスペースの床に寝そべるだけだ。仰向けになりうつ伏せになり、パンツの中以外は綺麗に垢を落としてもらった。約15分。爽快。

「マッサージはどうか?」と私の二の腕をもみながら聞いてくる。いくらだ、と聞くと、「20ユーロでどうだ」と聞いてくる。交渉制のようだ。パリで値段交渉なんて初めてだ。ここはもうアラブ圏といっていい。(km)「20ユーロは高いよ。8ユーロでどう?」。結局10ユーロで話がまとまった。高さ1mくらいのテーブル上の空間に移動する。首の骨をごきごき鳴らされる以外は足や上半身の筋肉をほぐす普通のマッサージだった。

風呂上がりには、清潔なバスタオルをはおって、くつろぐ。階段下のリネン室でタオルにアイロンを掛けているおばちゃんに声を掛けて缶ジュースを出してもらう。おばちゃんは上階の番台に向かって叫ぶ。「日本人、缶ジュース2本よ!」伝票などはなく番台で注文ごとにつけておくようだ。

マッサージしてくれたおじさんも浴場から出てきて、「日本人にゴマージュと10ユーロのマッサージをしたぞ!」と上階に向かって叫んだ。

おじさんは、ミントティーをおごってくれた。北アフリカですら冬場は粉末ミントを使うと聞くが、どこで入手したのか生のミント葉が入った本格的なお茶だ。茶をすすりながら話すと、おじさんも周りの客も皆アルジェリア人だった。この回りの一角がアルジェリア人街なのだそうだ。このハマムは在パリのアルジェリア人の小さな社交場なんだろう。

着替えて、1階に上がり、番台で支払をした。入場料・アカすり・マッサージ・ドリンクで約4500円。私のホテル代より高いが、体は温まってさっぱり、大満足である。

でも、アルジェリアでは200-300円で入浴できることを考えると、在住アルジェリア人にとって21ユーロの入場料はちょっと高いかもしれない。きっとアルジェリア人割引でもあるのだろう。そしてアルジェリア人以外ほとんど来ないこのハマムで表示額通り21ユーロ支払う客はほとんどいないのだろう。

今回訪問したハマムはアルジェリア人ばかりで、チュニジア人・モロッコ人がいなかった。ということは、きっとモロッコ人用のハマムがモロッコ人街に、チュニジア人用ハマムがチュニジア人街にあるのだろう。

ひとくくりにアラブ人街と思っていたパリの一角が重層的で奥深いものと分かった。今度パリに来る時にはもっと探索することにしよう。美術館めぐりよりもずっと楽しいはずだ。

(2008.12)

ミャンマー パガンの手相師

重信メイさんの手相の話に関連して思い出したことを書いてみます。2005年、ミャンマーを旅した時のことです。

あなたは、占いを信じますか?

私は基本的に信用しません。それは、自分が、高校の文化祭でタロットの占い師をやった実体験に基づく勘です。

タロットのカードには一枚一枚意味があります。しかしその意味は多義的で、解釈の幅があり、それをどのように伝えるかは占い師の裁量にゆだねられています。

例えば、「死神」のカードがでると占われる側はびっくりするでしょうが、倒位置であれば、再生というポジティブな意味にもなるし、正位置の「崩壊」という意味であっても話の流れのなかで積極的な意味を持たせることはできるのです。

占いというセッションを繰り返す毎日の中で、私は、大事なことは、インスピレーションではなく、客と良いコミュニケーションを取り、彼女(占いしてほしいと言ってくるのはたいてい女の子です)がどんな状況に置かれているのか、どんな性格なのか、悩みの根幹はどこにあるのかを的確に把握することだと思いました。

それができないと、どんなに手際よくカードを裁いても、カードの意味をよく覚えていても、「当たっていない」と言われてしまうのです。逆にそこさえできれば、インスピレーションなどなくても「当たっているかもしれない」ことを言えるようになるわけです。

文化祭が終わるころには、出てくるカードの持つ意味の中から状況に応じたものを選び、話をつづけ、「当たっているかもしれない」「確かにそうかもしれない」と喜んでもらえることが多くなりました。

この、占い師側になってみたという経験から私は、占いとはコンサルティングの要素をもつ奥深い儀式だと思うと同時に、答えが一義的に出ない占いに「未来を予知する」という力はないと思うようになりました。

ただし、例外があります。
1)近い将来の話
2)断定的な話
3)普遍的でない話
これらに対する回答をする占い師は勝負に出てきており、実際に当ててきたら本物であるということです。
なぜなら、1)2)3)の話は、当たりはずれがすぐに判明してしまうという意味で占い師にとっては危ない橋を渡ることを意味するからです。たとえ占いの道具によると、「1)7日以内に、2)必ず、3)足を骨折するでしょう」と出てきたとしても、「下半身が弱い傾向があるようなので、スキーとかテニスとかするとき、怪我をしないよう気をつけるようにしてくださいね」程度にしておくのが穏当です。にもかかわらず、3日以内の骨折を予言し、当ててきたら凄い占い師だということです。

前置きが長くなりましたが、ミャンマーのパガンに話は飛びます。

パガンは、アンコールワット(カンボジア)・ボロブドゥール(インドネシア)と並び世界3大仏教遺跡と日本では言われています。私が調べた限りこの「3大・・・」は日本人が勝手に言っているだけですが、バガンが素晴らしいことには変わりありません。

(続く)

2009年3月21日土曜日

パレスチナ 重信メイ 「秘密」

(アマゾンの商品紹介から引用)
日本赤軍・重信房子の娘が書いた数奇な半生

国籍を持たず、身分を隠し、英雄の娘としての衿持を抱いて生きてきたメイさんが、母のこと、仲間のこと、学生生活、恋愛……すべてを書きおろした衝撃の手記。

こういう生き方――
「日本赤軍のリーダー、国際的なテロリストとして、世界に名を轟かせた重信房子に1人の娘がいた。メイである。その生い立ちは、何万人に1人という数奇な運命を背負っていた。28歳まで国籍も持てなかった。日本では犯罪者として捕えられている母を、メイは、「この母の子に生まれたことを誇りに思う」と言い切っている。聡明で、心やさしく、感性の豊かなメイに、誰でも友人として思わず手をさしのべたくなるだろう。そういう魅力をこの手記は持っている。」 ――(瀬戸内寂聴)



インパクト強烈です。私が最も衝撃を受けたエピソードは、いつ殺されるか分からない状況で生きてきた彼女の手相には生命線がなかったけれど、日本で安全に生活できるようになってからその線が少しづつあらわれてきた、という部分でした。
無国籍のまま身元を完全に秘匿して生きてきたメイさんの28年間。これは現代の「アンネの日記」ですね。

* 日本赤軍のイメージと本作品
重信房子、「日本赤軍」、「浅間山荘事件」などほとんど知らずに成人した世代の私が初めて日本赤軍の存在を意識したのは、92年のヨルダン入国時です。当時、地球の歩き方は中東をカバーしていませんでしたが、「地球の歩き方フロンティア」という写真集が出ており、それによると、日本人旅行者は、日本赤軍との関連を疑われ入管でトラブルになる可能性があるということでした。その後日本赤軍の行ったとされる事件を知るにつけ、彼らは私の理解を超える狂信集団・テロ組織であると思うようになりました。どんな高尚な信念に基づくにせよ、暴力を伴った行動は、支持することはできません。
しかし、そんな私でも本作品は抵抗なく読み進めることができました。
本作品は、日本赤軍リーダーの娘として生まれ育ったメイさんの目から見た、レバノン、パレスチナ、日本や家族への想いが込められた自伝作品であって、日本赤軍の行動に対して共感を得られるかとは切り離して読むことができます。

* 衝撃的だった点
・大家族
日本赤軍のメンバーとその家族が寄り添いながら大家族で暮らしている様子がとても興味深いです。誰の実子かを問わず大人達が皆で面倒を見る仕組み。「お母さんの一人が」というような表現が出てきます。不自由な環境下にあることを除けば、アフリカや南米の田舎の家族のように愛情と思いやりにあふれた生活環境だったことがわかります。
・日本的な生活
彼らが異国において非常に日本的な生活を送っていたことに驚きを隠せませんでした。
卵かけごはん、お茶漬け、ご飯とみそ汁、ごちそうは雑煮と刺身という食生活。初日の出、正月、雛祭、誕生会などの伝統行事は欠かさない。「鬼ごっこ」「かごめかごめ」など古典的な日本の遊びを私より若いメイさん達がやっていたというのもすごい。極めつけは、「毎日朝6時に起きて、ラジオ体操」。これが「テロリスト」と呼ばれている彼らの日常です。
・抑圧された日常
コミュニティの外ではアラブ人として生きる。外では一切日本語を話さない(母親とも英語で)。学校の友達や彼氏にも身元を話せない。仲間の生活で日本名を使うことはなく高校生になるまで実母の名前すら知らなかったこと。想像を絶する程に抑圧された生活環境だったことがわかります。
・戦闘地域で暮らすということ
人形やぬいぐるみが落ちていても決して拾わないよう教育されて育つ(おもちゃ爆弾対策)。学校の授業で人命救助の時間があること。子供たちの将来の夢は、医者かフェイダーン(兵士となって命をささげること)。どれも驚くことばかりです。

タジキスタン オセチア人の運転手

・初めて出会ったオセチア人
初めて出会ったオセチア人は、タジキスタンの首都ドシャンベのタクシー運転手だった。

タクシー運転手はたいてい私の顔を見て国籍を尋ねてくるものなのだが、その体格の良い年配の運転手は無駄話一切なしだった。

興味を持ったのは私の方だ。彼の顔つきは、中央アジアのものではなく、ヨーロッパ系の白人だ。しかし目のあたりの険しさから見てロシア人ではなさそうだ。白い立派な口髭はトランプのキングのようにカールして上を向いている。恐る恐る私の方から聞いてみると彼は言った。

「俺はオセットだ。」コーカサスのオセチア人である。

オセチア人が決して豊かとはいえないタジキスタンに働きに来るようなことがあるのだろうか。私の聞き間違えではないのか。

確認のため尋ねてみた。
(km)「オセチア、ウラジカフカス(北オセチアの首都)?」

すると、それまで無表情に前を見て運転していた運転手が、右助手席に座っている私の方を向いて元気よく頷いた。
(ドライバー)「ダー、ダー(そうだ)!!」
私が故郷のことを少しでも知っていたことがうれしかったのだろう。

ソ連崩壊後のオセチアは、南はグルジア領・北はロシア領に二分されている。ウラジカフカスかという問いに頷いたことが、実際に彼が北オセチア出身ということまで意味するのか、それとも南オセチア出身だがオセチアは一つだという信念に基づくのかは分からなかったけれど、詳細をロシア語で聞くことはできなかった。

当時私がオセチアに関して知っていたことはオセチア人が騎馬民族スキタイ人の末裔であること。「オセチア人は、スキタイだよね。(オセット、スキタイ、ダー?)」と尋ねてみたが、反応はいまいちだった。

理由はいくつか考えられる。
1)ロシア語では「スキタイ」とは言わず別の呼称になる
2)旧ソ連圏の教育では、少数民族の民族意識を活性化させるようなことはタブーで、オセチア人がスキタイ人の末裔なんて教えられてこなかった
3)スキタイが「キタイ(中国)」に聞こえて、「こいつ、オセチアと中国を混乱しているな」と思われてしまった。

宗教を聞いてみると、タジク人のようなムスリムではなくキリスト教徒だという。遠いコーカサスのオセチアと中央アジアのタジクを何が結びつけているのだろう。疑問を持ったまま旅をつづけた。

帰国後調べてみると、オセチア人はタジク人同様ペルシャ語系の言語を話すことが分かった。オセチア人とタジク人とは、ロシア語を介さなくても意思の疎通がとれるのであろう。距離にすればかなりの開きがあるタジキスタンとオセチアだが、両者の民族的心理的つながりは意外と太く、タジキスタンにあるオセチア人のコミュニティは結構大きかったりするのかもしれない。

2008年はオセチアを巡るニュースが頻繁に流れたが、それを見る度にあのトランプ髭のドライバーを思い出した。 
(タジキスタン 2003年訪問)

グルジア 地下鉄の怪力王

グルジア 地下鉄の怪力王

2000年当時のグルジアの首都トビリシは、旅行者が戦争・テロに巻き込まれる危険はほぼなかったが、それでも内戦で国が疲弊していることがよく分かった。

中央駅からも見える大きなホテル(イベリアホテル)は、難民アパートと化し観光客は泊まれない状態だった。難民とは黒海沿岸のアブハジア・アジャリア両地区から逃げてきたグルジア系の国内難民だ。黒い魔女のような服を着た老婆が掌を上に向け誰彼とわず物乞いしていたシーンが今でも頭から離れない。

私が泊った駅ビル6Fの安ホテルは、廃墟のように荒れ果てて、24時間完全停電していた。従業員は接客レベルは共産主義時代のまま。食事するにも外に出なければならない。良かったのは、駅ビルからすぐに地下鉄に乗れたことくらいだった。

外コーカサス(モスクワから見てコーカサス山脈の外側)に地下鉄があるなんて想像していなかったが、史上最強の独裁者スターリンがグルジアの出身だから、故郷に対して経済的な便宜を図ったのだろうか。

それとも、この地方がNATO加盟国のトルコや、革命前は親米だったイランとほど近いことからすると、冷戦時は防衛戦略上の必要があったのかもしれない。つまり、旧ソ連圏の地下鉄駅は核シェルターを兼ねていて、戦争時に住民を収容することができるのだ。

ジェトンを買って、イコン絵やロザリオなど宗教グッズばかりのキヨスクを横目に見ながら、改札をくぐる。

地下のホームへ続く長いエスカレーターは、日本だったら怪我人が続出しそうなくらい高速スピードだ。

広告だらけの日本の駅や電車に慣れている私の目には、殺風景なトビリシの地下鉄駅はむしろ重厚でとても新鮮に映った。そんな駅や電車をぜひとも写真に収めたかったけれどあきらめた。グルジアは各地で内戦・紛争を抱えており、地下鉄駅構内で写真撮影すると不審者として拘束されることが予想されたからだ。

私は、まるで美術館に来ているかのように駅ホームを鑑賞しながら列車を待った。

列車は程なくやってきた。ヨーロッパ・CISの電車はブザー音もなく閉まることも多い。閉まってしまう前にさっさと乗り込みたいのだが、目の前の大きな親父がもたもたしていていて乗り込めない。

「早く乗ってくれー」と心の中で念じていると、扉は突然閉まり、目の前の親父はドアに挟まれてしまった。足や服の一部が挟まれた程度ではなく、体全体がもろに扉に押しつぶされて身動きが取れないようだ。

これが日本であれば、直ちに扉は再開され、駅員が飛んでくるかもしれない。けれど、親父は挟まれたまま、扉も開かず、駅員もやってこないし、車両内の客が助け出そうともしない。

「俺が助けなきゃ」と扉に手を伸ばした瞬間、親父は肘を曲げたまま二の腕を開き、ぐぐぐっと扉をあけ広げた。

「すっ、すげー」。
日本人だったら、まずは扉のゴムの部分を肩と掌で抑え、それから全体重を掌に乗せるようにしても数センチ押しあけるのがやっとではないか。この親父は、扉に当たっていた右上腕をすっとスライドさせただけで、扉を大きく開き、そのまま制止させていた。超朝飯前という感じである。

親父はさらに驚く行動に出た。
二の腕で扉を抑えながら、右脇の下から顔を覗かせ、私に「乗れ」というように顎をしゃくったのだ。

これだけの怪力男であれば、強引に体を捻って車両に入ることは容易なはずだ。そうせずに扉に挟まったのは、挟まれてしまったのではなく、後ろに続く私を車両にせるために閉まりかけた扉を体を張って押さえてくれたということである。

グルジア人の思いやりと豪快さにいたく感動しながら、私は親父の脇の下をくぐり車両に乗り込んだ。親父は二の腕を外し、扉は「ドーン」という大きな音ともに閉まった。

私に向けられる車内の乗客の目が恥ずかしかったが、まずは親父にお礼を言わなければならない。改めて親父を見ると、スターリン髭を生やした身長2m近い大男で、胸板と腕回りはすごい迫力である。

私は手を差し伸べて「スパシーバ(ありがとう)」と言った。握手した手のでかいこと。

あまり知られていないが、コーカサス地方は力技大国で、重量挙げ・柔道・レスリングなどで優秀選手を量産してきた。角界でも黒海はグルジア(アブハジア)出身、露鵬はロシア領北オセチア出身だ。

年齢から考えて現役ではないだろうが、その体格からして元スポーツ選手だろう。私は両腕を天井に突き上げるジェスチャーで親父に尋ねた。
「腕すごいね。あんたは重量挙げの選手か?」

親父は首を横に振って、私から視線を外し窓の方を向いた。ニコリともしなければ、何も話しかけてこない。思いやりある行動の後でなんだか素っ気ないと思ったが、旧ソ連の(元)スポーツ選手がニコニコ愛想を振りまくなんてできないのは何となく理解できた。

結局親父は一言も発しないまま次の駅で降りて行った。照れくさいのだろうか。勝利インタビューでもほとんど話さず表情も変えない日本の関取を連想してほほえましく思った。

異変に気づいたのは、私がその次の駅で電車を降りたときである。

背負っていたナップザックのポケットが開いていたのだ。手を入れて確認したら、中に入っていた財布がなくなっていた。

「やられた。」怪力王はスリ集団の一人だったのだ。

思い起こせば、親父(怪力王)が扉に挟まれたとき、私の後ろにもう一人「乗客」(実行役)がいた。怪力王と実行役はグルということだ。手順は以下のとおり。

1)きょろきょろと駅構内を見渡す隙だらけの私をターゲットに指定。
2)怪力王は壁となって私の動きを止めるためにあえて扉に挟まれる。
3)呆然と立ち尽くしていた私の背中から実行役が財布をスる。
4)スリが発覚しても追走を困難にするために扉を開けて私を乗車させる。

それにしても、私が乗り込む時に大勢の乗客や車掌が見ていたはずなのに、なぜ誰も助けてくれなかったのだろう。グルジア人よ、ちょっと冷たいのではないか。

確かに、乗客からは大きな親父が壁となって私が見えなかったのかもしれない。けれど、車内の客が誰一人扉の再開を手伝わなかったことも考え合わせると、乗客はむしろ、怪力王らが仕事中だと気が付いていたのではないだろうか。気づいていたとしても怪力王の前で私を助けるなんて怖くてできなかっただろう。

万が一客が気が付いていなかったとしても、車掌は現場を見ていたはずだ。車掌が扉を開けず、結果としてスリ行為を助けたのはなぜだろうか。

1)車掌もグルだった。
2)難民の生活困窮に同情してスリを見逃してやった。
3)あの観光客バカだな、と楽しんでみていた。
4)面倒くさかったので見なかったことにした。

1)2)はさすがに考えにくいだろう。3)はありうるけれど、4)「面倒くさいから見なかったことにしよう。」が実際のところではないだろうか。事件だと騒いで列車の運行を遅らせてしまうほど重大事件ではないし、騒ぎにして怪力王に逆恨みされるのも怖いだろう。スリなんて、きっとトビリシの地下鉄では日常的な軽犯罪にすぎないのだ。

スられた財布はダミーで、小銭しか入れていなかったので実害はなかったのだが、助けてくれたと勘違いして怪力王に握手まで求めた自分が恥ずかしかった。右掌に残る握力の余韻を感じながら、難民があふれるトビリシの治安状況を改めて認識した。

* 2006年にグルジアを再訪したとき、アジャリアの内戦はグルジア側の勝利で解消していました。アジャリア自治区の首都バツミは平和そのもの。トビリシの治安も幾分良くなっているように思いました。2008年にはアブハジア・南オセチアの内戦が激化したので、今のトビリシは様子が違うかもしれません。なお、2000年訪問時は、南オセチアの状況は比較的落ち着いていて、トビリシにオセチアから難民が流入しているという話は聞きませんでした。

* 関連
・用心棒シルバンの話(2000年訪問時)
Sに会ったのは感じのよいグルジア料理レストランだった。つめればぎりぎり4人座れるテーブル席が3つだけの小さなレストラン。・・・・柔道選手として日本にも2度来たことがあるというS。
・・・そんなSと、翌日思いがけないところで「再会」を果たすことになる。全く違う表情のSと。・・・・・・国を代表した柔道選手といっても引退後仕事はないのだ。仕事がないとどうなるか。その体格と腕力を生かせるのは裏社会ということになる・・・・略
・アジャリア(2006年)
2006年にアジャリア自治区の主要都市バツミを訪問したときは、黒海沿岸の庶民的リゾート地としてにぎわっていた。トルコ系イスラム教徒が独立を掛けて闘争していたアジャリア内戦は、グルジアの勝利に終わっていた。街中にはグルジア国旗のモチーフである赤い十字架が取り入れられた新しい自治区旗がはためいていた。モスクも見つからなかった(実際には大きなモスクが町中にあるようです)。2006年時はすでに実質ロシア領となりグルジアの支配が全く及ばなくなっていたアブハジアとは対照的に、グルジアの完全コントロール下に入り落ち着きを取り戻しているようで、兵士もあまり見なかった。2009年現在トルコの首相を務めているエルドアンTayyip Erdoğanの家系も旧オスマントルコ領のアジャリア由来らしい。(後略)
・カジノへようこそ
・「お前はタジク人か」
グルジア中部の古都クタイシの街角。民家の階段に腰掛けていた老人は通り過ぎる私をとめてロシア語で尋ねた。「お前さん、タジク人かい?」。タジキスタンは旧ソ連の中央アジアのペルシャ系共和国。タジク人はイラン人同様恐ろしく顔の濃い人々。日本人の中でも薄い顔の私がタジク人に間違われるとは・・・苦笑するしかなかった。ソ連が崩壊して20年近くたっても、老人の頭の中は、旧ソ連圏世界で完結している。日本なんて彼の地図には載っていないのだ。アフリカのウガンダで露店の裁縫師に「お前さん、アマゾンから来たのか?」と真顔で聞かれたことを懐かしく思い出した。
・初めて出会ったオセチア人

2009年3月20日金曜日

中国 映画「鬼が来た 鬼子来了」




導入は最高に面白く、中盤まではテンポよく見れるのですが、終盤の展開についていけません。登場人物が突拍子もない行動に出るのですが、そのような行動に出るまでの心の動きが全く描かれていないので、「なんでなんで?」という感じで終わってしまいました。村人との宴席が突然殺戮の場と化したり、村を焼き払ったり、主人公の馬が日本軍人を虐殺したり、馬が首を切られてほほ笑むところとか、全く不可解。私が最近見た映画の中で最も共感できなかった作品です。

*興味深かったシーン(中国人の考える日本人像など)
・軍艦マーチ・「気をつけ」「馬鹿野郎」
これは典型的な中国の反日映画やTV番組でもおなじみですね。中国を旅行中何度も目にしてその度身につまされます。カシュガルを旅行中ちょうどそんなテレビ番組が放送されていて、反漢民族の意識がつよいウイグル人にも言われました。「日本人、良くない」と。
・飴を中国の子供たちにあげる日本軍人
実際にこういうシーンがあったならほのぼのしますけど、フィクションでしょうね。
・酒を乞うて泣くシーン
敵国人の前でしませんよね。日本人は。大体、中国人と違って感情を最も出さないのが日本人の国民性だと思うのですが、戦時中は異なったのでしょうか。
・「800年前は同じ国」
中国人が日本人をそう評していましたが、そんな考え方は一般的なのでしょうか。私は2007年にロシアから中国へ国境を超えた時に、世話になった中国人に。「昔500人の中国人が船に乗って島に辿り着いた。それが日本人の始まりだと中国では教えられている。だから僕らは兄弟だ。」、と言われて衝撃を受けました。
・帝国軍人の褌シーン
褌が一般的だったとしても、褌で部屋の外をうろつくことはないですよね。。。
・「ちゃんころ」 
戦時中、日本人が中国人をそう呼んでいたようです。初めて知りました。

ボスニア 映画「ボスニアの花 Grbavica」

2006年ベルリン映画祭金熊賞作品
Esma's Secret: Grbavica, and in USA as Grbavica: Land of My Dreams.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%82%A8%E3%83%9C%E3%81%AE%E8%8A%B1
(引用)
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエヴォで、娘のサラと二人暮しをしているエスマ。収入は少なく、深夜遅くまで働く日々が続く。まだ12歳のサラは母が留守がちなことから寂しさを募らせていく。
ある日、サラはクラスメイトのサミルと喧嘩をしてしまうが、「父親が紛争で亡くなった」という共通点から次第に親しくなっていく。
エスマから、「父親は殉教者」と教えられており、サラ自身もそれを誇りに思っていたが、学校の修学旅行がきっかけで父親の死に疑問を持ち始める。父親の戦死証明書があれば旅費が免除されるので、エスマに証明書を出すようせがむサラ。しかし、父親は死体が見つからなかったから証明書の発行は難しいと苦しい言い訳をするエスマ。
証明書を渡してくれない母に不信感を募らせていくサラに、クラスメイトが「戦死者リストに父親の名前が無い」とからかう。耐え切れなくなったサラは、サミルから預かった拳銃でエスマを脅し、真実を教えて欲しいと迫る。そして、エスマは隠し続けてきた過去の秘密を話してしまう……。
戦争が生んだ、人々の愛と憎しみ・トラウマ・絶望を描く。(引用終わり)


あらすじやレビューを見ないまま観賞した。ボスニア人監督作品は、アンダーグラウンドに次いで2度目だが、ボスニアが舞台の映画は私にとってこれが初めて。勘の良い人であれば、「サラエボ」で「父親の詳細が不明」というだけでエスマの秘密が分かるかも知れないが、私はそこまで考えずに見たので、衝撃的だった。シリアスな映画が大好きな私にとっても重たく感じる映画だった。

*この映画に見られるボスニアの文化・慣習
・ボスニアHには、ボスニア人(ムスリム)、セルビア人(セルビア正教)、クロアチア人(カトリック)が住んでおり、それぞれが血で血を洗う内戦を繰り広げた。本映画は、首都サラエボの、ボスニア人地区を舞台にしている模様。
・映画に出てくる町並みには長くこの地を支配してきたオスマントルコの影響はあまり見られず、東ヨーロッパの貧しい街と映った。廃墟になったビルも多く出てくるが、戦闘のフラッシュバックシーンや、他民族との間に残る日常的なしこりやいざこざは描かれていなかった。(エスマの秘密を除く)
・シャヒードという言葉が幾度となく出てくる。「殉教者」というテロップは正しいがそれだけでは良く分からない人も多いのではないか。ボスニア戦争でムスリム人と言われたボスニアック(ボスニア人)は、セルビア人、のちにクロアチア人との闘いを宗教戦争になぞらえ、戦死者・犠牲者をイスラム教を守護するために自らの身を捧げた殉教者と称えられた。サラが「私の父は殉教者よ」と誇るところにも風潮がよく出ている。
・モスクやコーランが流れてくるシーンはあるものの、男女が公の場で接吻をしているなど、イスラム色は強くない。実際私がサラエボに行ったときは、イスラム教の祝日だったこともあり、旧市街はムスリムの町の賑わいも感じ取れたが、お祈りはしない名前だけムスリムが多そうだ。
・女の人同士が挨拶をするときに、「メルハバ」と言っていた。メルハバは、トルコ語の挨拶だが、オスマントルコ統治時代からの名残だろう。私がボスニアを旅した時も、コソボやアルバニア同様現地のモスクがトルコ様式だったのが印象的だった。エンディングで流れる歌もトルコ風だった。
・魚を買うシーンで、生簀に泳いでいるマスを取り出し、木づちで頭を叩いて殺すシーンが興味深かった。さばいてから客に渡すのだろう。
・ピストルがすぐに入手できるところ・殺し屋がいることろ(10,000ユーロで殺しを依頼するシーン)・子供をすぐにひっぱたくところ、金に困っている友人に小銭を集めて助けてあげるところ、など西欧とは違うバルカン文化圏に属することが改めてわかった。

* 親子の関係 (ネタバレ注意)
映画のタイトルのグルバヴィッツアというのはサラエボの一地区の名前。激戦地だったようだ。この映画では戦争そのものの描写は出てこない。映画で描きたかったのは、内戦で傷を負った人々の一つの例としての親子の関係なのだろう。
エスマ:
過去にひどい精神的な傷を負っているようで、極度の男性不信に陥っている。バスの中で男性の胸毛を見て気分が悪くなってしまったり、職場(バーの受注ホステスをしている)でも客が接客ホステスに暴力的なアプローチをするのが耐えられなく慌てて精神安定剤を服用したり。彼女の傷を理解してくれそうな男(バーの用心棒)と軽いデートをする関係まで発展するものの、男の急なオーストリア行きで結ばれず。娘サラにはピストルで娘の父の秘密を話すよう強制され、ついに秘密を話す。いつも決して発言しなかった女性たちの集いでついにエスマは詳細を語る。チェトニック(セルビア人グループ)のエスニッククレンジング作戦によりキャンプで強姦され続け、できたのがサラだと。流産を試みたが病院で出産。はじめは顔も見たくもないと言っていたサラを腕に抱いて、その小ささと美しさに心を打たれたこと。
サラ:
典型的スラブ系美少女。父がシャヒードであることの証明書を出せば修学旅行費用が免除になるのに、証明書を出さなかった母に対する不信が募らせる。用心棒の男に送ってもらう母をみて、「お父さんの詳細が分からないというけれど、私、お母さんがゆきずりの男と関係してできたんじゃないのかしら」と感じたのだろう。真実を知ってから、サラは自分の髪を切り落として坊主頭になる。「自分に父の面影はあるか」と尋ねて「そうね、髪の毛が似ているわ」と言われ、嬉しそうに触っていた大切な髪を切ったのだ。チェトニックに対する嫌悪、自分の再出発、母や周りの人達に強く当たったことへの自戒、いろんな意味が込められているだろうが、とても印象的なシーンだった。母親との間はまだぎくしゃくしていた。けれど、修学旅行のバスの中から、ぎこちなく母に手を振るサラ。そして他の学生たちと歌いだす。これからの母子関係と明るい生活を暗示するように。映画では出てこなかったが、サラのように、民族浄化作戦で生まれた子供は2万人もいるらしい。

イラク DVD「戦場の夏休み」

「戦場の夏休み-小学二年生が見たイラク魂」を見た。
ジャーナリスト吉岡逸夫氏のイラクへの家族旅行を記録したDVD。企画としては面白いし、タイトルに偽りなしだが、2003当時のイラクにおける人々の生活や考え方を知るという意味においては物足りなさを覚えた。

(アマゾンの商品紹介から引用)
3年(km注:2003年の意味)にイラクへ家族旅行をしたファミリーは、おそらくこの吉岡一家くらいのものではないだろうか。イラク戦争後、街には米軍の戦車が行き交い、建物は破壊の跡を残し、略奪と盗難が頻発する無法地帯と化した。そんな場所へ、小学2年生の風美ちゃんを連れていくのだから、「無謀」というほかはない。
ところが、戦後のイラクで見たものは、一家にとって意外なものだった。フセインを慕っていたはずの国民は、一変して彼を独裁者と呼び、思い思いに発言をする。米英軍や、日本の自衛隊派遣にも意見は様々だ。危険なイメージばかりが付きまとうイラク人も、吉岡一家の目を通じて見れば、危機を生き延びた、陽気で温かな人間たち。風美ちゃんの素直な反応が、それを教えてくれる。吉岡一家が無事に帰国したのは、ただ運がよかっただけなのかもしれない。けれど、こんな旅だからこそ、「素」のイラクが映し出されたのも確かだろう。
《監督》 吉岡逸夫
(引用終)


* ジャーナリズムに望むこと
家族旅行の記録、と割り切って見るなら良いかもしれない。しかし、人々がお金を出してこの作品を買ったりレンタルするのは、この作品がプロのジャーナリストである吉岡逸夫氏の企画制作によるものだからではないだろうか。私がプロのジャーナリストに伝えてほしいことは、公正な取材に基づく正確な事実であるが、この作品はその点でどうだったのだろうか。
1)情報の正確性に疑問あり
まず、吉岡氏と通訳、吉岡氏と現地の人とのコミュニケーションが正確に取れているのか、また、それが作品に正確に反映されているのかに関して疑問を抱いた。例えば、バスラの通訳の従兄が親サダムフセイン政府に殺害されたと語るシーンが出てくる。通訳は英語で「従兄弟が殺されて、その従兄の6人の子供が残された(生き残っている)」と言っているのに、DVDの字幕では「6人の子供が殺された」とされていた。真実を伝えるのがジャーナリストの使命だとしたら酷い誤訳と言わなければならない。 また、ドライバーとのやり取りは通訳なしで片言英語でやり取りしている部分も多く出てきたが、どうもドライバーの意図と吉岡氏の理解が噛み合っていない。例えば、ヨルダンからイラクまで移動中のドライバーが「車を何台か連ねて行けば問題ないさ」と胸を張っているように見えるシーンでも、ナレーションは「ドライバーはひどく怯えていた」である。吉岡氏が本当に「ドライバーがひどく怯えているほど治安が悪化している」と感じたならそんなイラクに家族を連れていくことは無謀というほかない。
2)公正な取材なのかに疑問あり。
2002年に現地で撮影された「笑うイラク魂」では一人を除いて皆サダムフセイン万歳派だったが、2003年の夏本作品の撮影時には皆手のひらを返したように、「サダムフセインは最悪だった。前回取材時には(取材に立ち会っていた情報省役人が怖くて)真実を話せなかった」と口をそろえる。けれど、よく見ていると取材対象者は、ほとんどバグダッドのシーア派住民か、シーア派が圧倒的に多いバスラの住民である。イラクは、シーア派・スンニ派・キリスト教、アラブ人・クルド人・トルクメン人・アッシリア人等からなる多民族多文化国家である。一枚岩であるわけがない。スンニ派や北中部の住民に聞いたなら、サダムフセイン感情は2003年時でも良かっただろうし、その他の民族・宗派でも「英米に支配されてしまうよりは良かった」と冷静に考えていた人もいるのではないだろうか。取材の結果一枚岩のように見えたとしたらそれは取材対象者の選び方に問題があったのではないだろうか。また、2002年と2003年時で取材対象者が意見を変えたように見えたのは「翻意」ではなく、サダム側の役人同伴という2002年の取材手法に限界があったからである。そのような状況で取材対象者が真実を語れるはずもなかったのだから。その意味で、本作品が公正な取材に基づいていたのか疑問が残るのである。

2009年3月17日火曜日

シリア ドルーズの村

*ドルーズの村訪問の想い出

私が初めてシリアを訪問した92年夏のことです。

数日前ダマスカスで招待してくれた家の食事に当たり2日間寝込んだ私は、病み上がり状態でボスラ行きのバスに乗りました。私をボスラ行きのバスまで案内してくれた親切な青年が、片言の英語で切符を買って来てくれると言うので金を渡しました。

しかし、青年が切符を持って戻ってくる前に、バスはエンジンをかけて出発しようとします。私は、切符を買ってきてもらっている途中なんだと運転手にアピールしましたが、理解してもらえず。病み上がりでしんどかったこともあり、金と切符はあきらめて出発しました。

出発してしばらくすると、バスの車掌らしき男が運賃の回収に来ました。この時までにうすうす感づいていましたが、バスはチケット事前購入式ではなく、車内清算式でした。つまり、私は、「親切な青年」に金を騙し取られたのです。渡していたのが当時のシリアポンドで一番大きい単位の札だったこと、それに、シリアではいい人ばかりに出会って来たこともあり、だまされたことがとてもショックでした。

(シリアのバスでは運転手も車掌も私服なので)青年がバスの関係者だと勘違いして運賃を支払ったことを一応言ってみました。そんなことは車掌にしてみれば知ったことはないはずですが。

次第に乗客が寄ってきて私の言わんとすることをああだこうだと議論し始めます。乗客の中には私と青年のやりとりを見ていた者がいたこともあり、私に何が起きたかを何とか理解したようです。乗客の中で、私の代わりに私の運賃を払ってくれた青年がAでした。

Aは20歳前後といったところでしょうか。はやしている口ひげはシリア人にしては薄く、控えめな印象の青年でした。絶対に外国人をだますようなことはしない田舎の人、という安心オーラが全身から発散されていました。

バスがAの村に近づきました。Aが私に自分の村に寄って行けといっているのが何となく分かりました。その辺りがボスラまでどれくらいの距離なのかも分からず、英語も通じないであろう辺境の村に立ち入る不安はありましたが、安心オーラに引かれてAについてバスを降りました。チケット詐欺で印象を悪くしたままシリアを出たくない。どこかで印象をリセットしたいという気持ちが自分の中にあったのでしょう。

バスを降りてAと私はしばらく歩きました。バス道を外れると、その地帯が丘陵地であることが分かりました。見た目には素朴で綺麗ですが、畑に適した平らな土地でないということはその村が相対的に貧しいのだろうという印象を抱きました。

どれくらい歩くのか分からず不安でしたが、英語で尋ねても理解してもらえないだろうと思い、黙ってついていきました。黒っぽい石が石垣のように積まれた不思議な小道を上ってAの家にたどり着いたときはバスどおりから30分くらいたっていました。

家にはAの兄弟なのか親戚なのか良く分からない青年が2人いて、私を迎えてくれました。家の奥からゆったりした民族服を着たお父さんらしき人物が出てきて私を歓迎してくれました。女性は出てきません。イスラムの教義のせいか、保守的な土地だからか、女性は男性の団欒の場に参加しないのでしょう。

A達は、私に水やナッツを出してくれ、シャワーを浴びなさい、とか、昼寝をするか、などいろいろ気を遣ってくれるのですが、沈黙が漂うばかりで落ち着きませんでした。

そんなとき、女性が一人家に入ってきました。英語で私に挨拶しながら。スカーフなどは被っていない現代風の装いで、20代後半と思われる綺麗な女性でした。保守的な地域で女性の方から私に近づいてきたこと、しかも英語で話しかけてきたことに少し驚いた私に、彼女は説明してくれました。彼女は村の学校で英語教師をしていること。外国人ゲストである私が村に来たから助けてやれと村人に言われたこと。

私は、何だか村全体から監視されているような気味悪さを感じはしましたが、彼女のおかげでAをはじめ青年達とのコミュニケーションも取れるようになりました。

そこで私ははじめて知ったのです。彼らがドルーズであることを。ドルーズとはアラブ人でイスラム教の一派ですが、特殊な信仰ゆえに異端扱いされています。当時の私はアラウィ派とドルーズ派を混同していて良くわかっていなかったのですが・・・(今でもどちらも異端だということ以外よく分かりません。)ドルーズが秘密主義で排他的ということは聞いていたので、そんな人たちの村に入ることができてとても幸運だと思いました。

私はドルーズの教義についていくつか尋ねましたが、よく分かりませんでした。おそらくドルーズの教義が門外不出なので適当にごまかされたのだと思います。

それでも一つだけ強烈に覚えているやり取りがあります。

km「ドルーズは異教徒と結婚できないというのは本当なの?」
女性「それは本当よ。相手がイスラム教徒でもキリスト教徒でも認められないの。」
km「もしドルーズの人が異教徒と結婚したらどうなるの?」
そんなことは考えたこともない、というように、彼女はAや周りの青年達と何か言い交わしました。
女性「結婚した人は・・・殺されても文句を言えないの」
私は女性と談笑しているのを村人に誤解されて処罰を受けないか急に不安になりました。

(中略)
食事を出してもらった後、青年達はトラクター!!でボスラまで送ってくれました。今後シリアのあの辺りを再訪することがあっても、あの村にはもうたどり着けないだろうなと思うと無性に懐かしくなります。

* 「シリアの花嫁」に出てきたドルーズの長老のような服を着た人は、このドルーズの村では見かけませんでした。ドルーズと名乗られなければ、私の目には全く普通のアラブ人としか写らなかったでしょう。ドルーズの村であることを意味する五色の旗はあったかもしれませんが、訪問時はそのような知識がなかったので注意して見ませんでした。モスクがなかったことも気がつきませんでした。


* 言葉に困ったら学校を探せ 
上記出来事の後、私は英語が通じない土地で、どうしても英語で話さなければいけない込み入ったトラブルを抱えているときは、学校を探すことにしました。高校であれば世界のどこであっても英語の先生は一人くらいいるし、中学校以下であっても学校の先生になるような人は勉強熱心な人が多いので英語を少しは話せることが多いからです。

* ドルーズ 参考サイト
http://en.wikipedia.org/wiki/Druze
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E6%B4%BE
ドルーズ Druze

珍しい! ドルーズの集会所の写真
http://sekitori.web.infoseek.co.jp/Houses/ie_Syria_dzur.html
同服装
http://gotenyama2.web.infoseek.co.jp/Hito/hito_Syria_doz.html

http://en.wikipedia.org/wiki/Alawi
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E6%B4%BE
アラウィ Alawi

http://palestine-heiwa.org/note2/200411271957.htm
ドルーズの兵役拒否

http://palestine-heiwa.org/note2/200501121424.htm
映画「凧」

http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2515826/3320670
レバノンでも親シリア派・反シリア派に分かれているようだ。

http://homepage2.nifty.com/hashim/israel/israel007.htm
カルメル山の麓 ・・・ ドルーズ人の街:ダリヤット・エル・カルメル

シリア 映画 「シリアの花嫁」The Syrian Bride

東京の岩波ホールで「シリアの花嫁」を見てきました。2004年モントリオール映画祭グランプリ作品です。日本ではDVD化されそうもないので、鑑賞をあきらめていましたが、新聞記事を見て上映中と知りました。あらすじを書く代わりに記事を引用します。

(引用)
映画:「シリアの花嫁」 苦しみ終わらせねば イスラエル人監督、紛争下の暮らし描く

 イスラエル軍によるパレスチナ自治区ガザ地区侵攻が「終結」してから約2カ月。パレスチナ側に多大な被害を出したが、イスラエル側にも「暴力の停止と共存」を呼びかける人々はいる。その一人、映画監督のエラン・リクリス氏(54)は「皆が目を覚まし、双方の苦しみを終わらせなければ」と訴える。【和田浩明】
 リクリス監督は「シリアの花嫁」(04年、東京・岩波ホールなどで上映中)で、イスラエル占領下のシリア・ゴラン高原から、二度と家族の元に戻れないことを知りながら、イスラエルと国交のないシリア側に嫁ぐイスラム教ドゥルーズ派の女性を主人公に据えた。
 「レモンの木」(08年)では、イスラエルと自治区ヨルダン川西岸の境界近くに所有するレモン果樹園が、治安上の理由でイスラエル当局に破壊されそうになったパレスチナ人女性の抵抗を描いた。いずれも押し付けられた「境界線」に翻弄(ほんろう)されながら、自らの人生を選び取ろうともがく人々の姿が活写されている。
 自己正当化や相互非難が支配しがちな中東紛争の言説空間。リクリス氏は「多くの人が共感できる普通の人々を描き、判断を押しつけない作品作りに努めている」と語る。
 外交官の父に伴われ海外で育った。ブラジルで通ったアメリカンスクールで、女性教師から「耳を傾けること」の重要性を学び、ベトナム戦争に苦しむ超大国の姿に戦いの不毛さを感じ取った。第4次中東戦争では兵役に就き、高校時代の級友の多くを失った。
 母国をめぐる戦いはいまだやまない。「このままの状態では生き続けることはできない」。リクリス氏は暴力を超えた対話の可能性に希望をつなぐ。中東和平の将来は不透明だが、「もっと酷い状況を克服した国々もある。子供たちのために、関係を改善しなければ」と呼びかける。
 「シリアの花嫁」上映情報はhttp://www.bitters.co.jp/hanayome/
(引用終わり)
http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20090316dde007030060000c.html

国境には大なり小なりドラマがありますが、イスラエル占領下ゴラン高原という悲劇の「国境」から生まれたドラマは心に沁みます。「In This World」とともに、国境マニア必見の映画でしょう。また、この映画を通じてアラブ系マイノリティであるドルーズ派コミュニティの生活慣習や考え方を知ることができてとても有意義でした。

* 印象に残ったシーン
(ネタバレ要注意。特に後半からラストにかけては予想外なので・・・)
1)主人公の花嫁モナと家族
綺麗な洋風ウェディングドレスを着た花嫁モナ。それでもモナの表情には哀愁が漂う。式を終えてシリア側に嫁いだら最後生まれ故郷には戻れず家族とも会えないからそれが悲しいのだ。
モナの村はイスラエル占領下のゴラン高原にあり、シリアとイスラエルには国交がない。国交がないのに国境を越えて嫁ぐことができるという理屈が良く分からなかったが、映画の中で説明していた。つまり、イスラエル占領下にあっても本来シリアの領土であるゴラン高原の住民はイスラエル国籍ではなく「無国籍」なので、結婚など特別な理由があればシリアに行くことはできる。しかしシリアに入ったらその者の国籍はシリアと確定するので、国交のないイスラエルに再入国できなくなってしまうということのようだ。 
2)ドルーズの長老
モナの家にはドルーズの長老達。8年前にロシア人と結婚し国外に住む息子(モナの兄)の帰郷・結婚式参列を認めないという。ドルーズ派では異教徒との結婚はタブー中にタブーであり、モナの兄はその禁を破っていたのだ。私が以前聞いた話では異教徒との結婚は処刑の対象になるということだったが、ここのコミュニティではそこまで厳格でないようだ。ドルーズ派の権威者の独特な服装が見れて面白かった。
3)親シリア派のデモ
ドルーズ派の中も親シリアと親イスラエル派に別れているようだ。アラブ人でありながら教義の特殊性から異端扱いされているドルーズ。就職・就学などさまざまな理由からイスラエルを受け入れざるを得ない人も多いだろう。親イスラエル派と噂される男とむつまじく会話していた親シリア派の家の娘が家に軟禁されるシーンが出てくる。
モナの父親は政治犯で服役歴もある親シリア派。娘の結婚式の日なのにデモに参加する。占領下とはいえ少数派のデモを認めているイスラエルに民主的な側面を見た。アラブの国レバノンではパレスチナ人難民が指導者の写真を掲げることすら禁止されているのだから(サブラシャティーラ2005訪問時)。
4)「国境」地帯
「国境」によって引き裂かれてしまった親族が拡声器を使って会話するシーンが出てくる。何度か写真やニュースで見たことがある。私は、イスラエルと国境を接する南レバノンのキアムに行った事があるがそこではそのような光景を目にすることはなかった。
シリア側に住んでいるモナの弟が拡声器で叫ぶ。「モナにお母さんのコーヒーを持たせてくれ」イスラエル側から拡声器で兄が叫ぶ。「分かってる。3リットル用意しておいたぞ」。日本の味噌汁みたいなもので家庭の味が懐かしいのだろう。シリアは、かつて統治していたフランスの影響もあってか、コーヒーの美味しいところだ。
5)国境越えの手続き
花婿はシリア側に来ていない。不安にかられるモナ。事故で遅れていた花婿がシリア側国境に到着して、赤十字職員がモナのパスポートを持って国境越えの手続きをサポートする。しかし、思わぬトラブルが発生。モナの「入国」をシリア側の役人が認めない。ゴラン高原はイスラエルの不法占領下にあってもシリアの領土であり、シリアの役人にとってイスラエルの出国印が押されていることが問題なのだ。赤十字の職員は緩衝地帯(250mくらい)を何度か往復して問題の解決に努めるが、両国の役人とも規則に縛られ柔軟な対応ができない。さすがにこのままでは映画は終われないよな・・・と思って見ていると、イスラエル側の役人が折れて出国印を修正液で消すことに。晴れて花嫁は国境を越えて結婚できる。
6)別離と和解のシーン
モナは、家族一人一人と最後の抱擁をする。感動的なシーンだが、もっと泣けるのが次のシーン。異教徒と結婚し、勘当して以来無視し続けた息子(モナの兄)の肩を超保守派の父が抱くのだ。表情も変えないまま。そして8年の月日を経て初めて息子は嫁を父に紹介する。さほど混雑していない映画館のあちこちからすすり泣きの声が響いた。
7)ラスト
ここで花嫁はシリア側に渡ってハッピーエンド、と誰もが思うだろうが、ラストにはどんでん返しが待っていた。シリア側の決裁権のある役人がすでに帰宅してしまったため、日曜日まで入国はできないというのだ。この煩雑な結婚式の手続きが整えるまで5ヶ月かかった。「今日結婚式を挙げられなければ次はない。」どうしていいか分からぬ家族。シリア側の花婿は事情を知らずにただ待ち続けている。
モナは意を決したように一人緩衝地帯を歩いていく。姉が笑顔とも泣き顔ともつかない表情でそれを見守る。The End。
どう解釈するかは視聴者に委ねる、という面白い終わり方だ。モナや花婿側の説得でシリア側がついに折れて無事結婚式を挙げられるという想像も可能だろう。緩衝地帯の中間地点にいる国連兵のパスポート検査は通り抜けられず結局モナは結婚できないだろうという悲観的な想像もありだろう。国境に翻弄される家族とコミュニティの抱える問題を描いたすばらしい作品だった。

2009年3月14日土曜日

国際ニュースサイト・解説サイト

世界一周一回目(全独立国訪問完了時2006.3)を終えてから、国際ニュースが俄然面白くなりました。どこの国も自分が実際に行った国なので、どの国の記事が出てもその国でお世話になった人々やその国の風景が目に浮かび、他人事とは思えないからです。

今日は私がよく見る国際ニュースのサイトを紹介します。

毎日新聞 
http://mainichi.jp/select/world/
私のブラウザーのホームページに登録しています。何といっても国際記事の本数が多く、日本語で読めるので安心です。カイロ・ヨハネスブルグ両方に支局を置いているのは日本の報道機関では毎日新聞くらいじゃないでしょうか(共同通信除く)。誤報や誤訳もありますが、その点に関しては日本の他の報道機関も50歩100歩です。情報の量・質・速報性で海外の報道機関にかなうところはないと思います。

BBC 世界・欧州記事なら
http://news.bbc.co.uk/text_only.stm
旧英領植民地からの移民が多いこともあり、ヨーロッパは勿論南アジア等世界中のニュースを非常によく網羅しています。内容的にも非常に中立を心がけていて、対立のあるところは両者の見方を掲載するようにしています。写真や地図が多く読みやすいです。最近ではスリランカの内戦の記事をよくフォローしています。

CNN 南北米なら
http://edition.cnn.com/WORLD/
F・・をはじめ情報操作系のニュースが多いアメリカのサイトの中では比較的安心して読めます。南アジアとアジアパシフィックをひとくくりにしていることから分かるようにアジアの記事は少ない。中南米の記事豊富。更新頻度と速報性はぴか一。速報ニュース配信をメール登録しておくことをお勧めします。

アルジャジーラ 中東・南アジアなら
http://english.aljazeera.net/
中東・南アジアのニュースはここが一番だと思っています。日本のニュースも頻繁に主要記事にしてくれます。写真が多く更新は頻繁です。カタール(アラブ)系の会社で、パレスチナの記事は同情的な論調が目立つものの、他の記事の中立性にはかなり気を使っている気がします。  

AllAfrica  アフリカなら
http://allafrica.com/
アフリカのニュースは断然ここです。

GoogleNews(UK)
http://news.google.co.uk/news?ned=uk&topic=w
特定の記事をもっと検索したいときによく利用しています。

Japan Today
http://www.japantoday.com/
日本関連ニュースが網羅的にカバーされている英語サイト。自らの英語学習教材として使っていたこともあります。普段はチェックしていませんが、海外のインターネットカフェで、日本語HPが見れないときによく見ます。フォーラムを読むと、日本在住の外国人の日本関連ニュースに対する考え方が分かって面白いです。

もんどセレクト
http://mondoselect.seesaa.net/
ニュース解説サイト・ブログで面白いのはいくつかありますが、解説となるとどうしても価値判断が入ってきてしまうので、自分の価値観に近いものを見つける必要があります。私の価値観にぴったりくるのがこれ。もんどセレクトは匿名ブログですが、海外ニュースを上手に分析しまとめてくれ、しかもとても説得力があるのでよく見せてもらっています。

田中宇氏
http://tanakanews.com/
北方領土で4島返還論が突然出てきた経緯、イランのイスラム教の宗教的な特徴等、自分が知らなかった裏事情を丁寧に解説してくれる記事が多くとても勉強になっていました。アメリカの覇権主義的行動は自らを意図的に破滅に導くためだという、「隠れ多極主義」論を持ち出してきてから変人扱いされていますが、「隠れ多極主義論」が極端な異説であることを理解して読む分には、まだまだ有益なメルマガだと思います。

宮崎正弘氏   
http://miyazaki.xii.jp/
メルマガは、中国に関する知識を得る上で重宝しています。記事の本数、速報性は驚異的。かなり明確に保守派の論客なので、分析を鵜呑みにしないよう気をつけて読む必要があります。専門外と思われるイスラム圏の記事には誤解が多いです。あと、宮崎先生マンセー的な読者のコメントが気になります。

荷物を失って得たもの(荷物圧縮術)

*荷物を全部盗まれて、見えてきたもの
コスタリカは中米諸国の中では経済的に発展しており治安も比較的良く犯罪は少ないといわれている。しかし私はコスタリカの首都サンホセで、パスポートと財布を除く荷物のすべて、リュックサックを丸ごと盗まれてしまった。

状況はこうだ。サンホセの中心部コカコーラ地区には、バス会社が集まっており、国内および国際バスのターミナルになっている。私はパナマの首都パナマシティーへの路線をもつPanaline社のオフィスで時間をもてあましていた。パナマシティー行きバスの出発時間はまだ2時間先だから、もう少し町を見てきても良かったのだが、荷物がやや重かったため面倒になり、オフィスで出発時間を待つことにしたのだ。私はオフィスの壁に貼ってある地図や広告を一つ一つ眺めていった。

ふと気がつくと、右足の脇においていた私のリュックがない。バス会社の人が気を利かせてバスにつんでくれたのだろうか。貴重品も入っているから私は荷物を預けることはしない。全く余計なことをしてくれたもんだ。。。

そう思いつつ切符を売ってくれたおやじに確認する。「君の荷物?知らないよ」。

・・・そうか、私の荷物は盗まれたのだ。オフィスの周りを急いで探してみたけれど、当然荷物も盗人の姿も見つけることはできなかった。

思い起こせば、荷物がなくなる前に、オフィスの中に急に人が増えた。彼らは組織的な窃盗グループだったのだ。人垣は私の注意を荷物からそらせる「煙幕」で、きっと私が荷物の盗難にすぐ気がついたときに追跡するのを妨げる「障害物」役の奴らもいたはずだ。

タクシーで急いで警察署に行き、ポリスレポートは書いてもらったが、盗まれた荷物が出てくる可能性は皆無に近い。中には着替え、書籍、日用品、航空券などのほか、TC、現金約300ドルやカメラなど金目の物も入っていたのだから。

撮影済みのフィルムを失ったのはとても残念だが、サンホセに残っていても仕方ない。幸い身につけていたパスポートと、クレジットカードとキャッシュいくらかが入った財布は無事だったので、手ぶらのまま予定通りパナマに行くことにした。サンダル・Tシャツ・短パンで手ぶら・・・難民さながらの風体で、バスのエアコンに震えながら、18時間耐えてやっとパナマシティに到着した。

荷物をなくして気がついたこと。
(1)身軽なことはなんと爽快なことか。
(2)無くした物がなくてもそれほど困ることはない。

刺激に満ちた町は書籍などよりもずっと娯楽を提供してくれるし、日記はどんな紙のうらにでもかけるしし、もともと出番がなかった薬などはもう買う必要もなかった。いざというときのために持ってきていた懐中電灯やNASAの銀色のシートや水中ゴーグルなど、なくてもいいものばかり持っていたのだ。爪切りなんか一週間に一回ホテルで借りればいいのだ。下着だってTシャツだって、必要ならどこの町でも安く買いなおせる。過剰な着替えも不要だった。カメラがないのは本当に残念だったけれど、今思えば使い捨てカメラなどをその場で調達することもできたはずだ。

結局いままで私が持っていた荷物はほとんど不要なものだったのだ。

サンホセ事件以来私の旅行中の荷物は次第に少なくなっていった。荷物は減らせば減らすほど快適な旅ができる。混雑した市バスに飛び乗ったり、気に入った駅で列車をふとおりてみたり、宿泊することなく荷物をもったまま町を観光したり、、、行動範囲はとても広がった。旅の快適さは荷物の軽さに比例するのだ。2003月12月の旅行からはそれまでのコンパクトデジカメに加えて一眼レフデジカメを持っていくようになったが、それでも私の荷物が10kgを越えることはなかった。

最近は、荷物を極限まで減らすことに快感を覚えるようになった。実際、カメラ関連をのぞけば手ぶらで旅行もできる。ただし、ミニショルダーバッグひとつで行ったアイスランドであまりの荷物の少なさに怪しまれ全身検査をされて以来、どんなに荷物が少なくてもナップザックに入れていくようにした。最近の荷物は大体以下のとおりだ(以下略)。

2006年4月記

* 補足
上記は2006年4月に書いたものですが、2007年にも荷物を全部盗まれました。ウガンダで。私、失敗から学べない男なんですよね・・・。
荷物をほとんど持たないという基本的に方針は変わっていません。荷物を減らすこと自体が護身術であり旅を楽しくする秘訣だと思っています。最近はナップザックも持っていかないですね。アフリカ旅行も肩掛けポーチひとつで行きます。
一眼レフも持っていかなくていいと割り切れば手ぶらで旅ができます。コンパクトデジカメのLX3だけでもいいかなと最近は思っていますので(左上の「ブログ検索」にLX3と入れると私の関連メモにアクセスできます。)。
着替えを持たないというとびっくりされますが、この点については機会があれば別稿で詳細を書きます。

アイルランド 北アイルランドへ列車の旅

映画「麦の穂を揺らす風」に関連して、私が北アイルランドへ行った時のことを少し。

* 北アイルランドへの旅
2005年の秋、私はアイルランド共和国の首都ダブリンから、英国領北アイルランドの首都ベルファストまで列車に乗った。ダブリンの駅のトイレなどには、英語に加えてアイルランド語が併記されていた。アイルランド魂を鼓舞するためだろうか、それとも外国人向けの文化展示のつもりだろうか。アイルランド語なんてダブリンでは誰も話していないのに・・・。
(中略)
この列車は、アイルランド共和国→イギリスへの国際列車なのだが、切符を買うときも列車に乗るときも車内でもパスポートチェックなどは一切なかった。いつごろ列車が国境を越えるのか確かめたくて、車両内に張ってある地図を確認したが、「イギリス領(UK)」とか「北アイルランド」とか「Ulster」といった文字はどこにも出てこない。地元の人も駅員も皆「ダブリン」「ベルファスト」等と街の名前のみを言う。「アイルランドはひとつなんだ」というひとつの想いで南北が結ばれていることが強く感じられた。
本来であれば「国境」に差し掛かるあたりで、目を凝らして車窓を見ていたが、国境の標識も見つけられず、町並みや風景も全く変化なかった。
ベルファストに到着。(後略)

* 独立しない選択
北アイルランド問題がニュースが取り上げる度、いつも私は思っていた。「なぜ北アイルランドはアイルランドに合流しないのだろうか。」と。
どちらもアイルランド人が多数を占めるにもかかわらず、アイルランド共和国は独立国、北アイルランドは英国領にとどまっている。北アイルランドはプロテスタントが多く、アイルランド共和国はカトリックが多いのは知っている。けれど、他の地域ならともかくマイノリティの権利や宗教に対する配慮が制度的に整っている西欧なら、宗教がどうであれうまくやっていけるはずではないかと。

けれど世界を旅してまわるうち、政治的・宗教的・経済的・その他さまざまな理由により独立をしないという選択をとっている地域がたくさんあることに気づいた。日本民族が日本固有の土地をほぼ確保したまま独立しているという状況こそ世界で極めて珍しいのだと。(コラム、「非独立国を旅する意味」 参照)

そもそも民族ごとに国が独立するなんて非現実的なのだ。例えばナイジェリアには500の民族がある。それぞれが独立を主張したら大変なことになる。ひとつの民族が国境をまたいで居住していることも非常に多い。ナイジェリア北部のハウサ族はニジェール・ブルキナF・ガーナ・トーゴ・ベナンなどたくさんの国にまたがって居住している。
(続く)

2009年3月13日金曜日

アフガニスタン 映画 「In This World」

ちょっと前に見た映画でも感想まとめておかないと全然忘れてしまうものですね。「路Yol」とか「ヒロシマ ナガサキ」とか今年に入ってから見て感動したのにもうほとんど覚えていません。ショックです。一言感想でもいいから見たらすぐにまとめておくようにしよう。

さて、In This World。前から見たかったのですが、近くのレンタルビデオ屋に置いていないので、買ってしまいました。

(引用)「イン・ディス・ワールド」(In This World)は2002年製作のイギリス映画である。マイケル・ウィンターボトム監督。ベルリン映画祭金熊賞を受賞。主人公の少年達は、実際にパキスタンの難民キャンプ出身である。(引用終)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89



* あらすじ
パキスタンのペシャワールに暮らすアフガン難民の2人(エナセートとジャマル)がロンドンを目指して旅をする。ルートはパキスタン(ペシャワール・クエッタ・タフタン)-イラン(ザヘダン)-パキスタン(タフタン)-イラン(ザヘダン・テヘラン・マクー)・トルコ(イスタンブール)-イタリア(トリエステ)-フランス(パリ・カレー)-ロンドン。
部分部分の話は実際に不法入国を繰り返しながら国境を越えてきた「本物の旅人」達の実話に基づく。ロードムービー風に仕上がっていて、いつ捕まってしまうか分からない緊張感がひしひしと伝わってくる。主人公の2人は本物の難民、不法入国を手伝う手配師(フィクサー・「旅行代理店」)やイランの警察なども本物が登場しているという。国境越えマニア必見の映画。

* 印象に残ったシーン(ネタバレ注意)
1)オープニング ペシャワールの難民キャンプ
アフガン難民の話と聞いていたがアフガニスタンが出てこないこと・かなり最近の時代設定(2002、米のアフガン攻撃によるタリバン政権崩壊後)であることが予想外だった。私はペシャワールの難民キャンプに実際に行ったことがある。想像していたような悲壮感はなく、ただ人々のもてなしの精神に感銘を受けた。懐かしい気持ちでオープニングシーンを見た。初めてこの光景を見る人はどういう印象を持つだろう。キャンプでは、古くはソ連のアフガン侵攻79年から、最近ではアメリカのアフガン攻撃によりやってきた難民達が暮らしているという。旅立とうとするジャマル少年に付きまとう可愛い子供は実際の弟らしい。
2)フィクサーの登場
「息子に未来のある生活をさせたい」というエナセートのお父さんが、密入国の手配師(フィクサー)と話をつけるシーン。本物の手配師で、実際主人公のパスポートを取らせるためにパキスタン生まれのアフガン難民をアフガンに「密入国」させたり、パキスタンビザを偽造してもらったそうだ・・・。親父はフィクサーに手数料の半分を前納、残り半分は立会人に預け、ロンドン到着の連絡を受けてから残り半分が立会人からフィクサーに支払われる。密入国、という秘めたプロセスが、手際よくシステム化されていることに感銘を受けた。ここまでくると旅行代理店のようなものだ。「若者二人が自分達の意思で思い立ちわずかな金をもって無謀にも旅に出る」、という私の予想していた筋書きとは異なったが、裏ビジネスの実際が分かって面白かった。エナセートの旅には英語の話せるジャマルがお供に着くことになり、2人で難民キャンプを出る。「自分の国で生きる方が幸せだぞ」と引き留める者もあったが、2人に迷いは感じられない。「自分の国」と言ったって、彼らは「母国」アフガニスタンを知らないのだ。知っているのはパキスタン・ペシャワールの難民キャンプとその周辺だけ。
3)パキスタン-イラン
雑踏、薄暗いホテルの中、アフガン風で場末感漂うクエッタの怪しい雰囲気がそのまま映像にでてきて臨場感がある。「クエッタに着いたらxxホテルのxxという男に会え」という指示を受けている模様。相手をどこまで信用していいのか分からないが、とにかく誰かを頼らざるを得ない、という2人の葛藤が伝わってきてどきどきする。パキスタン国内で早速警察に捕まり餞別にもらったウォークマンを賄賂として差し出しながら旅を続ける。イランに入ると、パシュトゥー語は全く通じず、イラン人フィクサーとはエナセートの付き人ジャマルが英語で話をつける。2人がアフガン生まれであれば、アフガンの共通語ダリ語(古ペルシャ語)くらい話せるからイラン人と意思の疎通はできるのだが、パキスタン生まれのアフガン難民は民族の言葉しか離せないのが実際だろう。
4)パキスタンに強制送還
ザヘダンからテヘランまで普通のバスに乗る2人。こんなんでは検問で見つかってしまうよ!と思ったらあっさり見つかってパキスタンへ強制送還される。監督のインタビューによると、このイラン警察は本物で、2人が難民であることもあえて言わずに撮影したそうだ。(警察)「お前らアフガン人だろ」(2人)「いや、イラン人だよ(片言のペルシャ語で)」というやり取りもぶっつけらしい。でも普通のバスに乗せてしまうなんて、フィクサーの怠慢ではないか。インタビューによると、実際にパキスタンに強制送還された後、国境からテヘランまで徒歩で移動した難民がいたらしいが、イランの検問は頻繁なのでそのくらいしないと突破は難しいのではないだろうか。2度目はあっさりバスでテヘランまで行けてしまうところリアリティがない。
5)イランートルコ 山越え
イランートルコの国境越えは、夜間雪ふるなかを現地ガイドの引率のもと雪山をひたすら歩いて・・・。リアル。めちゃ寒そう。インタビューによると、国境警備隊を避けるために、わざと悪天候の日を選んで山越えするそうだ。
6)イスタンブール
自分もパキ-イランートルコと陸路で越えたことがあるが、改めて見るとイスタンブールは大都会だ。実際にペシャワールから出たことのなかった2人にとって大都会イスタンブールがどんなに煌びやかに見えただろうか。不法移民の働く食器工場が出てくるが、本物らしい。
7)イタリアートルコ
トルコからイタリアまで。コンテナに乗せられて船で運ばれる。何時間かかるのか聞こうにも言葉が通じず、狭い箱の中に閉じ込められるのは実際どんなに不安だろうか。コンテナを内側からたたいて「あけてくれ」と叫ぶが、もちろん誰もあけてはくれない。酸欠になってしまったのか、同行するイラン人難民の乳児の泣き声がぱったり止む。イタリアに到着。数十時間ぶりにコンテナが開けられると、死んでしまったのかと思っていた乳児が泣き出す。「ああ、良かった」、と一息つく間もなく、ジャマルの相方エナセートが死んでいることが発覚。実際にコンテナに詰められて不法移民が死んでしまうことは良くあるようで時々ニュースになっているが、映像で見ると生々しい。
8)イタリアーフランス
一人になったジャマル。観光客の荷物から盗んだ金でフランスへ列車移動。盗むシーンはかなりどきどきである。フランス国内では危険な目にあわず、ちょっとうまくいきすぎという感じで物足りない。
9)フランスーイギリス
フランス側の難民キャンプで知り合った男と一緒に、トラックに乗り込んでイギリスへ。板切れを二枚持ち込んでそれをタイヤの上のスペースに敷いてうつ伏せで潜伏。入管職員らに懐中電灯で照らされ発覚する確率は高そうだが、映画では何事もないままロンドンに到着しており、ちょっと臨場感が足りない。
10)故郷へ電話
ジャマルがパキスタンの難民キャンプの親族へ電話をかける。「付き人」である自分が無事到着し、エナセートは死んでしまったことを報告。電話の向こうのエナセートの親父の頬を涙が伝う。命がけで旅をする難民達。それに比べ僕ら先進国の旅人のなんと気楽なことか。同じようにロンドンからの到達報告の電話シーンで終わる深夜特急がとても軽薄に思えた。

* 実際のジャマル少年
ジャマル少年は、撮影終了後一旦パキスタンの難民キャンプに戻るが、撮影用に取った英国滞在ビザの期間がわずかに残っていることから、出演料で航空チケットを買い一人ロンドンにやってきて難民申請したという。そして難民申請は棄却されたが2年間の特別在留許可がでてロンドンで生活しているそうだ。2009年の今、もうその許可も切れているはずだがジャマル少年は今どこで何をしているのだろうか。現実とフィクションがクロスオーバーしている点がとても興味深いと思った。
映画に出演しなければ夢で終わったであろうロンドン。しかし、今彼はロンドンで不法滞在の身。まともな仕事にも就けず裏街道を歩んでいくしかないかもしれない。ペシャワールの家族と会うこともなく。それは彼にとって「未来のある暮らし」なのだろうか。それとも例え刺激のないキャンプでも家族と一緒に暮らせる日々を恋しく思っているだろうか。
冒頭ペシャワールでのシーンで出てきた、「ロンドンに行って未来のある生活」を送れという親父の言葉、「自分の国で生きるほうが幸せだぞ」と引き止めた親戚の言葉、この2つの言葉をジャマル少年はどのように受け止めたのだろうか。

2007 旅の総括

2007 旅の総括
ちょっと古い情報ですがまとめておきます。

*2006.10-2007.4 世界一周後半
ラウンザワールドの世界一周チケットを利用
チケット自体は AMS-ACC、BMK-NBO-ZZB、JNB-GRU、BOG-HOU-HNL-CXI-NAN-AKL-SYD・・・とつなげています。切れている区間は陸路移動が主ですが、後半は離島巡りであることもありチケットを現地調達しています。

世界一周チケットを使ったのは3度目、そのうちラウンザワールドを選んだのは2度目。私のお気に入りであるアフリカ(SAとKQが使える!)と南太平洋(FJ,エアカラン、エアタヒチが使える!)に強いのが選択の理由です。


1)西アフリカ ヨーロッパからガーナまでKLで
・・・ガーナ-トーゴ-ベナン-ニジェール、ブルキナ-マリ、

2)南東アフリカ マリからケニアKQで
ケニア、タンザニア、マラウィ-モザンビーク-ジンバブエ-ザンビア-ボツワナ、

3)南米1 南アからブラジルSAで
ブラジル(ノローニャ島)、アルゼンチン(フエゴ島)

4)南極 クルーズ船ツアー
英フォークランド諸島、英南ジョージア島、南極半島

5)南米2 
アルゼンチン、チリ(ロビンソン島)、エクアドル(ガラパゴス島)、パナマ、コロンビア(サンアンドレス島)

6)南太平洋
米ハワイ、キリバス(クリスマス島)、フィジー、ニュージーランド(チャタム諸島)、オーストラリア(タスマニア島、ロードハウ島)、PNG(ラバウル、ウェワク、バニモ)-インドネシア(パプア)

7)アジア
インドネシア(パプア・マルク・スラウェシ・スマトラ・カリマンタン)-マレーシア(サラワク)、香港-中国(シンセン・成都・チベット)-ネパール、バングラ(アカウラ)-インド(アガルタラ)-バングラ(シレット)-インド(シロング、グワハティ、コルカタ、アンダマン諸島、チェンナイ)、石垣島-台湾(高雄)、韓国(プサン)-博多

GW
スリランカ、インド(レー・アーメダバード・ムンバイ・バンガロール・ゴア・コーチン・ラクシャディープ島・トリバンドラム)

7月週末
中国広州・海南島

8月週末
稚内-露(サハリン・ウラジオストク)-中国東北

9月週末
米アラスカ・アリューシャン列島(ダッチハーバー)

10月週末
ベトナム-ラオス-カンボジア

年末年始
ザンビア-コンゴ民主(Lubumbashi, Kinshasa, Goma)-ルワンダ、ウガンダースーダンーエチオピア

2009年3月11日水曜日

アイルランド 映画「麦の穂をゆらす風」

The wind that shakes the barley
(引用)
『麦の穂をゆらす風』(むぎのほをゆらすて、The Wind That Shakes the Barley)は、2006年のアイルランド・イギリス合作の映画。アイルランド独立戦争とその後のアイルランド内戦を背景に、英愛条約をめぐって対立することになる兄弟を描いた戦争映画。監督はケン・ローチ。
第59回カンヌ国際映画祭で最高賞にあたるパルム・ドールを受賞した。
(引用終わり)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%A6%E3%81%AE%E7%A9%82%E3%82%92%E3%82%86%E3%82%89%E3%81%99%E9%A2%A8


日曜日にリアルIRAによるとみられるテロ事件があった。それで日曜の夜に選んだのがこの映画。

* 印象に残ったシーン
1)オープニング
アイルランドの伝統球技ハーリング。網のないラクロスのラケットのようなものを使い、ホッケーのような感じで球を打っていく。初めて目にした。
2)ミホールの処刑
1920年、英国支配下にあるアイルランドの町コーク。名前を聞かれてミホール(アイルランド名。英語名だとマイケル)と答えたことが原因となり、英軍に処刑されてしまう。映画開始5分でもう映像に目が釘付けだ。
3)英軍との闘い
主人公ダミアンはロンドンで医者になる夢を捨て独立運動に身を投じる。ユニフォームもなく私服で軍事訓練をする仲間たち。英軍に捕まり拷問を受ける。ダミアンの実兄テリーは生爪をはがされながら拷問に耐える。刑務所に響き渡るテリーの叫び声を聞きながら仲間たちが大声で歌を歌って励ます。序盤でもう涙目である。
4)英国アイルランド条約
停戦・そして条約締結。戦闘シーンは少ししかないのにいきなり独立というのはちょっと唐突だが、地方都市コークではダブリンで起きていることが瞬時に伝わらないじれったさを感じさせる。
5)アイルランド独立派の内紛
条約で認められたのは、北アイルランドを除く南アイルランドの限定的な独立でしかなかった。英軍との軍事力の差という現実を見据えて妥協をする主流派とアイルランド全部の完全な独立を目指す少数派の中で紛争が起きる。兄弟の弟ダミアンは少数派に、兄は主流派に分かれて戦うことに。
6)ダミアンの処刑
拘束されたダミアンにテリーは頭を下げる。少数派の仲間の居場所を教えてくれ、と。ダミアンは言う。「仲間を裏切れない」。テリーは掟に従って、ダミアンを処刑するしかない。「今からでも遅くないんだぞ」テリーも涙目である。そして、発砲の号令を部下に掛けるテリー。涙ちょちょぎれるシーンだ。
ラストはダミアンの遺書をテリー自らダミアンの妻に手渡しに行くシーン。不要ではないか。処刑シーンで私は感情のピークを迎えていたので、そこで終わりにしてよいように思った。

* 監督の勇気に拍手
英軍のアイルランドに対する強圧的支配を描いた映画をイギリス人監督が撮るのはものすごく勇気のいることだ。イギリス人から見れば反英的映画・ここまでひどくないといわれるだろうし、アイルランド人から見れば実際はもっとひどい仕打ちをされていた、事実の歪曲だ、といわれるだろう。どんなに中立的に描こうとしても必ず不満を持つ人が出る繊細なテーマをあえて取り上げているのだ。不満で済めばいいが、自身の身に危険が及んだり、以後スポンサーがつかなくなる恐れだって十分あったはずだ。日本に置き換えてみれば、日本人監督が、南京事件や安重根(日韓併合時代に伊藤博文を暗殺した朝鮮の「英雄」)を描いた作品を作るようなものだから。

*なぜ北アイルランドは今なお英領にとどまっているのか。
映画を見て多くの日本人はそう思うのではないか。参考になるサイトを見つけたのでクリップしておきます。なお、質問者・回答者ともに私とは無関係です。

(引用)>ユニオニスト達もブリテン島にまた移り住めばいいのにと思ったりしたのですが、なぜ移民という立場で勝手に北アイルランドで独立するために残虐なことをいくらでもできたのでしょうか。

北アイルランドの歴史をご存知なのでしょうか?
現在のプロテスタント系の人達も、既に400年に亘って北アイルランドに住んでいる人達なのです。
北海道が「アイヌの土地だから日本人は出て行け」と言われて、北海道の人が出てゆきますか?
たった百年でその状態です。
それを400年前ですと、イギリスに親戚などもいなくなってしまっています。
質問者の方が、アメリカは、ネイティブアメリカンのものだから、ブッシュもオバマもアメリカ人全員を元の国に帰せるなば、北アイルランドでも可能でしょう。
アメリカは、北アイルランドの歴史の半分たった200年ですから。
(引用終)
nacamhttp://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4558774.html?ans_count_asc=1


*ニュースクリップ
イギリス:IRA過激分派が犯行声明 基地兵士2人殺害
 【ロンドン町田幸彦】英国・北アイルランドの英軍基地で7日、兵士2人が銃撃され死亡した事件を巡り、武装組織「アイルランド共和軍(IRA)」の過激分派「リアル(真の)IRA」を名乗る者が8日、犯行声明を出した。アイルランド・ダブリンの地元新聞社に電話してきたという。リアルIRAは97年、IRAから分離し、98年に北アイルランドで爆弾テロ事件を起こすなど、武装闘争を続けている。

 英BBCによると、北アイルランド自治政府でカトリック系住民を代表するマクギネス副首相は「自分は元IRAメンバーだったが、戦争はもう終わった。事件は(プロテスタント系住民との)戦争を再来させようとするものだ」と非難した。ブラウン英首相は「北アイルランドの和平構築を崩すことはできない」と強調した。

 負傷者4人のうち、2人はピザの配達員だった。http://mainichi.jp/select/world/news/20090309k0000e030046000c.html

2009年3月7日土曜日

アフガン映画「アフガン零年Osama」

2003カンヌ国際映画祭カメラ・ドール賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞。アフガニスタンをテーマにした映画を私が見るのは「カンダハール」に次いで2度目ですが、アフガン人監督の作品はこれが初めてです。

映画の冒頭で「許そう、しかし忘れまい」というネルソンマンデラの言葉が引用されます。言うまでもなく、アパルトヘイトという理不尽と戦い17年間も獄中生活を送りながら、アパルトヘイト廃止後南アフリカの大統領になったあのネルソンマンデラです。この言葉を使って監督が表現したのは、アフガニスタン、タリバン政権下の理不尽です。


*あらすじ
タリバン政権下、女性は外で働くことが禁止されている。父親を亡くし、祖母・母と3人で暮らす少女には生きていく糧がない。祖母は少女に髪を切り少年になって家計を助けるよう頼む。少女は少年になり済まし牛乳屋で働くが、間もなくタリバンに連行されコーラン学校(マドラサ)兼軍事訓練施設に送られる。そこで女であることが発覚してしまった彼女には、タリバン式裁判の結果ある刑が宣告される。

* 印象的なシーン
1)切り落とした髪を植えるシーン
男になれと言われた泣いていた少女が、決意したかのように髪を切り、その切った髪を植木鉢に植えるシーンが心に残りました。
2)井戸につるされるシーン
まだ少女が男ではないことが完全に発覚する前の場面です。お仕置きを与えるときにこんな風にしていたのですね。。。。
3)石うちの刑
タリバン政権下よくおこなわれていた刑ですが、映像で見たのは初めてでした。手足を縛った受刑者を掘った穴に入れて、周りから石を投げて処刑するのです。受刑者には布がかぶせてあるので血なまぐさいシーンではありませんが、実際にこういうシーンが日常的に行われていたかと思うとぞっとします。映画には出ていなかったけれど、受刑者が逃げることができたら放免するというルールがあると聞きました。
4)妻たちの家
老人の妻にさせられた女性達だけが暮らす家(家の一棟?)が出てきます。老人は外から鍵を掛けて女性たちは逃げ場がありません。
5)ドラム缶風呂
マドラサの教官らしき老人は、新妻との初夜を前にドラム缶風呂(日本の五右衛門風呂みたい)に浸かります。幸せそうな老人の表情が、少女の身を案じる視聴者を憂鬱にさせます。

*キャスト
イラン映画によくあるように、本映画もキャストは皆素人起用だそうです。主人公の少女の涙は全て本物で、少女が泣きやまずに何度も撮影がストップしたそうです。

*諸悪の根源はタリバン?
私が考えさせられたのは、この映画に出てくる種々の理不尽はタリバン特有のものなのかという点です。
1)女性の就労
まず、タリバン政権下でなくともアフガニスタンで女性が働くのは困難である点に変わりありません。それはタリバン特有の問題ではなく、アフガニスタン社会やいくつかのイスラム教国の慣習です。男性の庇護を受けられない女性は物乞いするしかなく、この状況は今なお続いています。
2)ブルカ・スカーフ
次に、女性の自由を抑圧するシンボルのように登場するブルカも今なおアフガニスタンでは一般です。私がアフガニスタンを訪問したのは2度ともタリバン政権崩壊後ですが、ブルカを被っていない女性を地方で見ることはほとんどありませんでした。戒律の緩いシーア派の村でも髪は必ず隠しています。首都カブールですらブルカは一般的で、髪を覆っていない女性を見た記憶がないほどです。ヘラートからカブールまで飛行機に乗ったとき、右隣の女性はスカーフの端を左手で吊りだし、1時間の飛行時間中ずっと私に顔を見られないようにしていました。外国人の私に対してもそうなのです。タリバンとは関係なくアフガン社会が保守的だということです。
3)少女の強制結婚
親子以上に年の離れた少女をめとる習慣は他のイスラム教国やインドにもある慣習であり、タリバン政権特有のものではないはずです。
4)子供の教育
子供の教育の面ではタリバン時代よりも現在の方が改善されたかもしれません。しかし、カルザイ政権の力が及んでいるのはカブールのみという現状で、地方がどうなっているのか正確に確認することができないので、タリバン時代とどれくらい違うのか実のところはわかりません。

 監督のシディーク・バルマクはパンジール出身で、http://en.wikipedia.org/wiki/Siddiq_Barmak タジク族ではないかと思われます。パンジールはタリバン(パシュトゥー族中心)に暗殺されたタジク族の英雄アハメド・マスードの出身地ですし、反タリバン感情が強いのはやむを得ないし、共同制作者(本作品は日本・アイルランド・アフガン共同)の意向もあるとは思いますが、タリバンが何でも悪い的なイメージを視聴者に与えかねない編集は、ちょっとフェアではないと感じてしまったのが正直なところです。

イラン映画「運動靴と赤い金魚」

1997モントリオール国際映画賞・アカデミー賞外国映画ノミネート。監督マジッドマジディやこの作品のことは「イラン映画を見に行こう」という本を読んで知っていたが、観賞したのは今回が初めて。私にとって、イラン人監督の映画を見るのは、「カンダハール」「キシュ島の物語」について3度目。これら2作ともおもしろかったが、本作品はイランで美徳とされる振る舞いやイランの市井の人々の暮らしというものがよく表れていてとても興味深かった。


リンクに表示されるテキスト

粗筋を書くと単純極まりない。妹の靴をなくしてしまった兄。家庭は貧しいので新しい靴を買ってくれと親に頼むことはできない。兄妹は一足の靴を二人で交互に使いながら学校に通う。そんな中、マラソン大会の3等の景品が運動靴であることを知り、兄が参加することに・・・。

全編を通じて、イラン的な「清貧な精神」を感じ取ることができる映画。日本や欧米とは全く違う世界なので、感情移入することはできないが、妙に感心してしまうシーンが多かった。たとえば、
・幼い子供たちが両親を助けてとにかくよく働く。(日本や西洋では親が勤めを果たしていないとかChild Laborとしてよく思われないところだが、イランではこれが常識であり美徳)
・靴の修理(日本ではぼろぼろになった靴は捨てるだけ。イランをはじめ世界の多くの国ではこのように修理して何度でも使う。)
・金魚も泳いでいる公共の水場の水をそのまま飲んだり食器や服を洗っている(日本の衛生感覚ではありえない)
・物資的な貧しさ(成績がよくてもらうのがボールペンだったり、地区大会のマラソンの商品が運動靴だったり、鉛筆一本で口止め工作したり・・)。
・学校校舎を午前中女子生徒・午後は男子生徒で使いまわしている(インフラに比して子供の数が多い上、男女が同席するのはイスラム教の教義上も好ましくないのだろう)
・モスクから預かった砂糖を砕くシーン(何でも工業製品として入手できる日本では、大きな砂糖片をトンカチで砕くようなシーンを見ることはない)
・モスクから預かった砂糖には一口たりとも自分で消費しない(清貧な精神を見ることができるが、監督の狙いはあまりに杓子行儀なお父さんを笑う点にあるかも)
・大家から滞納している家賃の催促され、にわか庭師になって高級住宅街を回り思いがけず収入を得る
(あきらめなければ何とかなる、神様はきっと助けてくれる、または金は天下の回りもの的な発想?)
・両親・先生はとても怖い存在
・絨毯の上で両親の前に兄妹並んで正坐しながら宿題をする(アジア的?)
・言い訳をこさえてはごまかそうとする(イラン人に多いですよね。良くも悪くも本当のことを潔く言って謝るのが日本式。)
・妹がある少女がはいている靴が自分がなくした靴だと確信して居ながらその場で異議を唱えず、少女の家をつきとめてから兄とともに後で訪問するところ(女性が交渉事に口を突っ込まないのがイランの作法?)
・突き止めた家のお父さんが盲目であることを知り、靴の回収を諦めて立ち去るところ(弱者に対する思いやりと施しの概念、イランの道徳でありイスラム教の教義)
・兄妹は知らないが、実はお父さんが彼らのために新しい靴を買って家に帰る途中(困ったことがあっても清貧に生きていればきっと神様が助けてくれるよ、というイラン的な発想?)
・高速道路を二人乗り自転車で走って行く。(日本じゃありえない。)
・高速道路沿いや町中に看板広告がほとんどない(資本主義色の薄いイラン。逆に新鮮。)

*現実のイラン
イランを3度旅した私から見ると私が知っているイランと映画に出てくる世界はずいぶん違う。イランは思ったより物資豊富で必要なものはほぼ手に入る。また、イラン人は、本音と建前の使い分けが非常にダイナミックな人たちなので、この映画に出てくるような清貧な精神がどの程度実行されているのか甚だ疑問。

*タイトル
「運動靴と赤い金魚」という邦題は正直そそられないタイトルだが、ペルシャ語・英語タイトルはインパクトがまるでないBachehaYeAseman/Children of Heaven・・・こんなタイトルでは商業的な成功が見込めないし、映画の内容とも全く一致していないように思うが、作成者の意図はどこにあったのだろう。ところでイランにはAseman航空というのがあったけど、天国っていう意味なんですね。

*役者
イラン映画では良くあることだが、素人ばかりを起用している。少年アリのお父さん役には、トルコなまりのあるペルシャ語を話す人をわざわざ抜擢したそうだ。もちろんペルシャ語のわからない私がこの映画を見てもその違いに気づくことはなかったが、日本でいえば東北出身のお父さんのような暖かさと不器用さがより一層引き出されるのかもしれない。

*結末
私が予想した結末は、アリが4着に終わり、泣いているところに誰かが靴をくれるというもの。実際には1着になってしまい、学校関係者は大喜び・本人は運動靴がもらえなくて泣き顔。最終的にはお父さんが靴を買ってきてくれるのだが、アリ本人はそれをまだ知らないまま映画は終わる。

ペンダント「パレスチナ人の涙」

エルサレム方面からパレスチナ自治区ヨルダン川西岸に直接入ることができるバスはなかった。イスラエル政府が建設した悪名高き「分離壁」のせいだ。壁は高さ3メートル以上あっただろう、壁の向こうは見ることさえできなかった。

「自治区」なんて名ばかりで、イスラエルにとっては、自治区も含めたその地域の「全部がイスラエル」である。自治区の自治権などまるでないように一方的に分離壁は建設され、今も自治区内でユダヤ人の入植は続けられている。

自治区側に入るには、車は通れない専用の狭い通路を徒歩でたどっていくしかない。空港の管制塔のように立派な監視塔が見下ろす狭い通路を人々が無言で歩いていく。巨大なコンクリートの車止め、張り巡らされた鉄条網、物乞いの女性、一人づつしか通れない鉄製の回転扉・・・なんともいえない閉塞感が漂っていた。

それとも、閉塞感を感じたのは私が自由な生活を知っている外国人だからであって、占領下で生活することには慣れきっているパレスチナ人にとってはなんてことない日常なのかもしれない。分離壁地帯を通って自治区外に通勤するパレスチナ人も多いだろうが、毎朝夕どんな気分で分離壁地帯を通り過ぎるのだろうか。

回転扉を通り過ぎるとワゴンタイプのミニバスが停まっていた。パレスチナ自治区行政府のあるラマラ行きであることを確かめて中に入る。周辺アラブの国では見るタイプのミニバスだが、エルサレムでこのようなミニバスは見なかったように思う。乗客は伝統的な服装をしていない人も半分くらいいたけれど全員パレスチナ人と思われた。皆「占領者」の通貨イスラエルシェケルで運賃を払っている。

ラマラは、アンマン(ヨルダン)・アレッポ(シリア)・トリポリ(レバノン)などのもつ歴史や重厚感こそ感じられないものの、水売りや露店のたたずまいや好奇心旺盛な街の人たちは間違いなくアラブ人の町という感じだった。

露店を冷やかしながら炎天下歩いていた私に20歳くらいの青年が英語で声を掛けてきた。「日本人か、Welcomeだ」とありきたりの会話の後、「僕の店が近くにあるから、おいでよ」という。何の店かと聞くと、宝石店だという。ラマラはエルサレムのような観光地ではないからぼったくりの土産屋ではないだろうと思いついていくことにした。

青年の「宝石屋」は雑居ビルの一階にあった。といってもビルの一階はテナントごとに仕切られているところはほとんどなく、広い通路のような空間にごちゃごちゃと売り物が積み上げられている状態だった。屋根があることを除けば、屋外市場とほとんど変わりない。

「宝石屋」というのも、通路の一角に、ディスカウントチケット屋によくあるようなショーケースが一つ置いてあるだけで、店番している人は誰もいなかった。青年が「店長」ということか。

青年は、ショーケースの裏から紙パックのオレンジジュースを出し、紙コップに注いでくれた。冷えてはいないがうまい。濃縮粉末タイプではなく天然のオレンジの味だ。
青年「パレスチナではオレンジがたくさんとれるんだよ」
埃っぽく乾燥した地という印象を持っていたので少し意外な気がした。

一息ついたところで青年が私に尋ねた。
「ねぇ、パレスチナのペンダント、見たい?」

パレスチナ自治区はヨルダン川西岸とガザに分離されているから国土を形どったデザインは難しいだろう。パレスチナ国旗をあしらった七宝焼きみたいなペンダントだろうか。それともパレスチナでとれる特殊な石でできたものだろうか。

青年はショーケースの裏から鍵を開けて一番下の段からペンダントを取り出した。まるで秘蔵の宝物を特別に見せてくれると言わんばかりに。

出てきた「ペンダント」は小さな鏡だった。何の色も付いていないし宝石もはめられていない。チェーンすらついていない、むき出しの鏡片。

鏡の形は、縦長で下半分は超ハイレグカット・・・

「それってイスラエルの地図だよね」
と私は言いかけて口をつぐんだ。

その楕円形の地形は、世界標準の地図を見慣れた私達からすれば「イスラエル」でも、パレスチナ人にとって、それは「イスラエル」などではない。自治区を含め世界がイスラエルと呼ぶ地域の「全部がパレスチナ」なのだ。

ナクバ(1948年のイスラエル建国に続く一連のパレスチナ人虐殺・離散。100万ともいわれる難民発生)を自ら体験していない青年を含めてパレスチナ人皆が思っているのだ。現実はイスラエルの占領下にあるけれど、ここは本来俺たちの土地なんだと。パレスチナ人が1000年以上守ってきた土地なのだと。

パレスチナ人の心を投影した質素なペンダントは、涙の形をしているようにも見えた。

(2005年訪問時)

写真はあるので後日掲載予定。


*私はパレスチナ人の苦境についてイスラエルのみを批判するものではありません。通りすがりの旅行者にすぎない私には見えないイスラエル側の事情というのもあるはずです。
本稿で私が書きたかったのは、分離壁と「涙のペンダント」を実際に見て、パレスチナ人・ユダヤ人双方が「全部俺たちの土地」と考えているのを実感し、和平の実現は極めて困難だと感じたということです。
「紛争・対立があるところ、(程度の差はあれ)どちらか一方のみが悪いわけではない。」というのは私が旅を通じて学んだことの一つです。パレスチナ人に対して同情的な気持は抑えられませんが、理想論ばかりを振りかざし一切の妥協をしない政権や党派対立にも、パレスチナ人を苦しめている責任の一端があると思うのです。

*関連: アンマンで「イスラエルの地図」を見て黙り込んでしまったパレスチナ人のおじさんの話(92年)

エルサレム午前3時、正統派ユダヤ人とした話(2006年)

* http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2223553/1586375#blogbtn
Farfurファルフルという偽ミッキーマウスキャラを利用して子供たちを洗脳しているハマス。なお、ファルフルはイスラエル入植者に抵抗してすでに殉教しています。

2009年3月6日金曜日

3つのモンゴル その1

2008年7月、3つのモンゴルを訪問しました。3つのモンゴルとは、モンゴル国、中国内蒙古自治区、ロシア・ブリヤート共和国を意味します。

モンゴル:モンゴルと言えば、朝青竜や白鵬の出身国であり、中国とロシアに挟まれた内陸国であるモンゴル国をイメージする人が多いだろう。けれどモンゴルは人類史上最大の版図を誇った国。モンゴル系民族が暮らしているのはモンゴル国にとどまらない。ユーラシア大陸各地にモンゴルの血は拡散している。アフガニスタンのハザラ族・アイマク族、中央アジアのカザフ族・キルギス族にもモンゴル人の血が看取できる。身体的特徴のみならず、モンゴル系の文化と言語を今日でも維持している主な地域としては、モンゴル国の他に中国内蒙古自治区とロシアブリヤート共和国がある。

旅の目的:

「3つのモンゴル」各地に暮らすモンゴル人の文化と生活を垣間見てくること。

ルート:

日本からは中国北京入り、中国-ロシア-モンゴル国-中国の経路で陸路

手段: 

成田-北京、および中国国内線は飛行機。 国境越えは、シベリア鉄道(本線および支線)予定だったが・・・

トラブル:

・満州里イミグレで出国拒否

・ロシア国境通過に18時間待ち

・パスポート偽造容疑

・シベリア鉄道乗り遅れ

・モンゴルでタクシー詐欺(知らない町に置き去り)

・オリンピック厳戒態勢の北京の夜

・出国チケット期限切れ

(続く)

2009年3月4日水曜日

越えてきた国境 リスト

国境越えは旅の醍醐味のひとつ。

陸路国境のない国である日本に生まれ育った私は、旅を始めてすぐに国境の魅力の虜になりました。悪徳役人が待っていようが、道が悪かろうが、不経済だろうが、不利益を補って余りあるだけの魅力が国境越えにはあると実感しています。

人工的に引かれた線にすぎないのに、国境に近づくにしたがって、民族がが、物流が、言葉が、生活習慣が、食物が、そして国民性が、ゆっくりとしかし着実に変化していく。たとえば、トルコシリア国境では、シリアに向かって南下していくにつれアラブ人の比率は増えていき、服も食べ物も気質もトルコ風からアラブ風になっていくのが感じ取れる。

時には政治体制や人種の違いから、国境を越えたとたんに別世界になる場合もある。たとえば、パキスタン・中国の国境は最高地点4730mのカラコルムハイウェイを越えていくのだが、このハイウェイは20C 後半に共通の敵インドをもち協力関係を深めた中国パキスタン政府が人工的に開通させたような国境だ。なので、途中に大きな町があったり人でにぎわっているようなことはない。途中こちらからタジキスタン、アフガニスタンなど看板はあるものの整備されている道路も見られない。カラコルムハイウェイを抜けてパキスタンから中国に入ると、がらっと世界が変わるのだ。今すぐに思いつくだけでこんなに変化する:
・4時間の時差、
・英語通じる→英語通じない
・理解不能な文字(アラビア文字)→理解可能な文字(漢字)
・イスラム・道徳→無宗教・無道徳
・風通しのよいゆったりとしたシャルワールカミース→安っぽい洋服
・男:毛むくじゃら・髭面→のっぺり・つるつる
・女:チャドル→なし
・浅黒い肌・大きな目・長い足→薄い肌・小さな目・短い足
・露出禁止(男女とも肌を見せない)→露出過剰(臍出し親父・女の太もも・ケツわれオムツ)
・ホスピタリティー・サービス過剰→歓迎・服務 没有
・甘いミルクティー→すっきり中国茶
・毎食カレーとチャパティ/ナン→ライスと種類豊富なおかず
・手づかみ→箸
・アルコールなし→激安ビール
もちろん、ウイグル人(トルコ系、アラビア文字、イスラム教)は漢民族とは種々の点で大きく異なるし、パキスタン北東部の民族はパンジャービーとはだいぶ違うが、大雑把にまとめるとこんな感じだ。

確かに、アフリカの国境をはじめとして、賄賂を要求してくる入管・税関職員・軍人・警察などと戦わざるを得ず、精神的にも肉体的にも疲労困憊することもあるのだが、後で振り返るとどれも楽しい思い出に変わっている。

これまでに越えた国境の数は、準国境(非独立国と独立国間の境)を含めれば150以上になります。ただし、時間との兼ね合いで、国内線飛行機を利用可能であれば国境付近の町まで飛行機で移動し、おいしい所(国境)だけ陸路移動することもあります。

個々のエピソードはいつか書くとしてここでインデックスのみ列挙しておきます。国境の町の名前は調べないと思い出せないので国境を接している国名のみ。ほぼ時系列。「-」部分が陸路(水路含む)越えした部分です。同じ地点の国境を越えてもカウントしませんが、同じ国でも違う地点の国境であれば重複記載しています。

1990s
Singapore-Malaysia
Turkey-Syria-Jordan-Egypt
Japan(Shimonoseki)-S.Korea-China(Yentai),
China-Vietnam(Laokai)
Pakistan-China
Thailand(NongKai)-Laos-Thailand(east)
India(Wagha)-Pakistan-Iran-Turkey-Greece(Samos)
Peru-Ecuador-Colombia-Venezuela-Brasil
Ghana-Togo-Benin-Niger-Burkina-Mali-Guinea-SLeone
Mexico-Guatelama-Salvador-Honduras-Nicaragua-CostaRica-Panama
SouthAfrica-Lesotho-SA-Botswana-Zimbabwe-Zambia-Malawi-Tanzania

2000
Azerbaijan-Georgia-Armenia

2001
Djibouti-Ethiopia
UAE-Oman
Haiti-DominicaR

2002
Uruguay-Argentine

2003
Burundi-Rwanda-Uganda
Kazakhstan-Kirgystan
Uzbekistan-Tajikistan-Afghanistan-Pakistan

2004
Malaysia-Brunei
Swaziland-Mozambique-SouthAfrica
CongoDR-Congo
Cameroon-Chad
Cameroon-Nigeria
Bhutan-India-Nepal

2005
UAE-Oman
Algeria-Tunisia
Djibouti-Somalia
Jordan-Israel
Morocco(W.Sahara)-Mauritania-Senegal
Gambia-Senegal-GBissau-Guinea
Cameroon-Eq.Guinea-Gabon
Syria-Lebanon
Bulgaria-Macedonia-Serbia(Kosovo)-Albania-Montenegro-Croatia-Bosnia-Croatia-BosniaH-Serbia-Hungary-Austria
Romania-Moldova-Ukraine
Belarus-Lithuania-Latvia
Germany-Netherlands
Spain-Andorra
Switzerland-Liechtenstein
Ireland-UK(N.Ireland)
Germany-Luxembourg-Belgium-Netherlands
Poland-Slovakia
Slovenia-Italy
France-Monaco-Italy-SanMarino
Suriname-France(F.Guiana)
Suriname-Guyana
France(Martinique)-Dominica
Netherlands(StMaarten)-France(StMartin)-UK(Anguilla)

2006
UK(BVI)-US(usVirgin)
Spain(Melilla)-Morroco-Spain(Ceuta)
Spain-UK(Gibraltar)
Turkey-Iraq
Finland(Aland)-Sweden
Samoa-NZ(Tokelau)
France(F Polynesia)-UK(Pitcairn)
France(StPierreM)-Canada(NFL)
Azerbaijan(Nakhchivan)-Turkey-Georgia(Azaria)-Armenia-Azerbaijan(NKarabakh)-Armenia-Iran-Afghanistan(Khandahar)-Pakistan
Poland-Russia(kaliningrad)
burkina-Mali
Malawi-Mozambique-Zimbabwe-Zambia-Botswana
Argentine-UK(Falklands)-UK(SGeorgia)-Antarctica

2007
PNG-Indonesia(Papua)
Indonesia(Kalimantan)-Malaysia(Sarawak)
HKG-China(Shenzhen)
China(Tibet)-Nepal
Bangladesh(Akaura)-India(Agartala)
Bangladesh(Shillet)-Inda(Shillong)
Japan(Okinawa)-Taiwan
SKorea(Pusan)-Japan(Fukuoka)
Japan(Wakkanai)-Russia(Sakhlin)
Russia(near Vladivostok )-China( )
Vietnam (near PleiKan/BanHet)- Laos ( ,d ) - Cambodia (Bavet/Bocbai)-
Vietnam
Zambia-DRCongo-Rwanda
Uganda-Sudan-Ethiopia

2008
(St Barth-St Martin)
TrinidadT-Venezuela
China(Manzhouli)-Russia-Mongolia-China
Malaysia - Philippines
Taiwan (Matsu)-China-Taiwan (Jinmen)
DRCongo-Centrafrica-Chad

英領ピトケアンPitcairn

* ピトケアン島
ピトケアンは南太平洋 絶海の孤島です。質問をいただいたので、少し書いておきます。写真もそのうちに・・・
イギリスが産業革命と植民地経営で大いに繁栄した18世紀後半、最重要の植民地であるアメリカが独立。アメリカから輸入した食糧でカリブ諸島のプランテーション労働者を賄っていたイギリスにとって食料の確保が急務となる。そこで着目したのがキャプテンクック航海誌で紹介された南太平洋のパンノキ。イギリス政府はタヒチにパンノキの苗木を確保するべく、船員を送るが、タヒチの夢のような生活に浸っていた船員は、英国に帰還することを拒否し、反乱を起こす。タヒチ人の妻らを乗せて当時無人島だったピトケアン島にたどりつき、生活を始めた。ピトケアン人は、タヒチの血が入った英国人反乱者の子孫たちなのだ。いったんは、全員がノーフォーク島に移住させられるも、一部家族がピトケアンに戻り、彼らの子孫約45人が暮らす。世界遺産のヘンダーソン島。航空便はもちろん定期客船もない絶海の孤島。めったにない機会なので、たまたま見つけたダイビングツアーに参加して渡航(私はペイパーダイバーだが)。このツアーのすごい点は、ピトケアン島のみならずピトケアン領内の孤島Oeno島、世界遺産であるHenderson島をも訪れる点。このツアーを逃したら2度と行けないかもしれないので無理して急遽参加。
マンガレバから南東に500km、ピトケアンは、他の離島同様「資金と時間が工面できれば」誰でも行くことはできます。
波が荒くて上陸困難な島・ロングボート・謀反者達の島・ホームステイ・島の存続が問われる強姦事件(村長を含むほとんどの成人男性が起訴)、島の乗り物Wheelbarrow/Quadbike・島の人々・電気・水道・インターネット事情、バウンティ以前のポリネシア遺跡、触れるガラパゴス亀、
http://en.wikipedia.org/wiki/Pitcairn
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%88%E3%82%B1%E3%82%A2%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%B3%B6
http://www.lareau.org/pitcres.html 島民名簿
http://pitcairn.pn/ オフィシャルサイト 


*英領ピトケアンの行き方
1)公共交通機関
定期客船のようなものはありません。しかし、貨物船に乗るというオプションはあります。まず、ニュージーランド(英連邦?)の郵便船。聞くところによると、NZのオークランドと米ロサンゼルスを結ぶ間にピトケアンを通過するそうです。年2回以上。ピトケアンに派遣されているニュージーランドの医師などもこれを利用するそうです。島の女性とかつて結婚し、離婚した今も2年に一度島に通っているアメリカ人のD氏によると、ブラジル籍の貨物船だと、一日当たり100ドルとられ、チキータバナナの貨物船だと一日10ドルとられ、オランダ籍の船だと無料で乗せてもらえたそうです。いずれも南米からアジアへ向かう船だったということで、ピトケアンまで片道10日以上かかるかもしれません。ピトケアン島政府のHPがあるのですが、このあたりの情報はクチコミで島民に伝わるだけなのか、アップされていなかったし、メールを出しても返事は来ませんでした。こまめに電話して聞くしかなさそうです。

2)大型クルーズ船
大型クルーズ船の中にもピトケアンを通過するものがあります。私がピトケアン訪問時、クルーズ船情報は島の掲示板(小学校と図書館のある広場)に張り出されていましたが、月に1つくらいは通過するようでした。しかし、大型クルーズ船が停泊できるような港はピトケアンにはありません。クルーズ船の客はロングボートに乗り換え島に上陸、3時間程度島を見て、またロングボートでクルーズ船に戻るだけだそうです。はるばる南太平洋の孤島まで行っておきながら、島の生活に触れる機会がないのはもったいないですね。メリットとしては、日程やルートの確実性。大型クルーズ船であれば、嵐などの影響も受けることなく、予定通り航行することができるかもしれません。

3)中型船ツアー
中型船ではバウンティ・ベイ号が毎年4、5回ほどピトケアンを含む航海をしています。http://www.pacific-expeditions.com 私自身2006年7月にこれを利用しています。仏領ポリネシアのマンガレバ発で30万円くらいかかりました。同じ年の6月に、日本人の地質学者2名がこの船でピトケアンに渡航されたそうです。バウンティベイ号は普通にインターネット検索しても出てこないので、私もある方から教えてもらうまでは見つけられませんでした。
船は小さく古く、スピードは遅く、非常に良く揺れるのでお勧めはしませんが、ピトケアンにどうしても行かなければ行けない理由があるならば検討の余地ありです。
(補足)私達の船はオエノ島・ヘンダーソン島(世界遺産登録)というピトケアン諸島内の2つの無人島を経由していったので、ピトケアン本島に到着したのはマンガレバを出て10日後くらいだったと思います。私がピトケアンにいたときに、嵐がやって来そうだ、という情報が来ました。私を含め乗客7人(但し行きは6人)は、島の広場に召集され、決断を迫られました。1)嵐が過ぎるのを島で待つか2)嵐が来る前に出航するか。片道10日もかけてやってきたわけですからせめて予定通り4、5日間は島に滞在したかったですが、1)を選択すると、嵐が去って出航できるのは2週間先になるかもしれないということ。次に訪問する島国の予定が組んである私にはとりえない選択肢でした。2)嵐が来る前に島を出るとするならばその日しかない。乗客7人の挙手による投票の結果、5:2で選択2(その日のうちの出航)が決まりました。予定ではあと2泊ホームステイできる予定だったので、急なお別れはとても残念でしたがやむを得ません。

4)ヨットのチャーター
小型クルーザーをヒッチまたはチャーターして行く、という手もあります。ピトケアンに一番近い有人島はフレンチポリネシアのマンガレバ島です。バブル期に俳優の時任三郎がテレビ番組の収録でピトケアンに行ったときもマンガレバから船をチャーターしたようです。ヨットは頻繁にマンガレバ島にやってくるそうで、私がマンガレバに行ったときも、自らもヨットでやってきたけれど、ここで半年間暮らしながら、他人のヨットの修理や整備をして旅費を稼いでいるドイツ男とブラジル女のカップルが島に住んでいました。違法就労はお勧めしませんが、島で待機しながら、やってくるヨットマンに掛け合ってみてはいかがでしょう。 自分たちのヨットで旅しているような人たちは金も暇も十分にある人たちですので、ピトケアンの魅力を話して誘えば、ヒッチできるかもしれません。私は試していないし、保証はできませんが、最後の手段として検討してもよいでしょう。島の人にヨットを有料手配してもらうとしても、3人以上ならば、大型クルーズ船に乗るより安く済むかもしれません。

カリブ海の回り方

カリブ海の回り方

ちょっとマニアックな情報になりますが、質問をいただいたのでまとめておきます。

1 概説
私は世界の国々を回る順序として、アジア・中南米・アフリカを優先し、ヨーロッパとカリブ海を後回しにしました。ヨーロッパやカリブは、いつでもいけるし、小国ばかりなので一気に回ろうと思えば容易にできると思ったからです。カリブ後回し作戦自体は正解だったと思いますが、短期旅行専門の私が、限られた時間の中でカリブ海諸国を一気に見て回るというのは少し無理がありました。とくに以下の2点で。
1)旅の季節と飛行機キャンセル
カリブに限りませんが、島路線は便の変更・キャンセルが頻繁なので予定通りに回れないのです。ボーディングパスまで受け取りながら目的地に飛べないことが4度もありました。また、短期しか休めない旅行者はハリケーンシーズン(夏場)を回避する必要がありますが、オンシーズン(冬場)は予約がなかなか入らなくて苦労します。見通しが甘かった私はカリブの島々を一巡りするのに4回通いました。
2)イミグレ対策
あと、各島でのイミグレとの戦いも予想外に大変でした。カリブ海はセレブやカップル・家族連れが豪勢に遊ぶというイメージが一般なので、貧相な東洋人男の一人旅は常に胡散臭い目で見られます。英領・元英領の島々は特に偏見が強く、中国人ではないかとか不法入国・就労を疑ってきます。特に大変だったのが、バルバドスと英領ケイマンか。米領バージンなどでも、「ひとりで何しに来たの? 本当に観光?」といじめられました。なお、英領の島々は出国チケットの有無を入国時に必ず確認するので要注意です。概して、中米南米・アジアなどで行き当たりばったりの自由な旅に慣れている僕ら個人旅行者にとっては厳しいところといえます。髭は剃る、サンダルで入国しない、笑顔で接する、などはもちろん、自戒を込めて言うならば、ジャケットのひとつでも羽織っていたほうがイミグレでスムーズに行くでしょう。

2 各論
1)東カリブ
私はLIATという航空会社の便を主に使いました。周遊券にすると安くなったのですが、しなくて正解でした。というのは、前述のように、カリブでは便のキャンセルや変更がとても多いのですが、ひとつの便がキャンセルになっても次の便は満席で乗れないことが多いため、LIAT便に固執していると予定がどんどんずれてしまうのです。周遊ではなくバラのチケットであれば、飛べない区間を払い戻しをしてもらって他社便に乗ることもできます。LIATのほかにもカリビアンスター・BIWA・WinAirやフランス系の航空会社がたくさんあります。なお、WinAirのいい加減さには何度も泣かされましたが、英領モンテセラート・蘭領サバなどWinAirでなければ渡航できない路線もあるので好き嫌い言っていられない場合もあります。島々の距離は短いので、時間に余裕のある人はフェリーがお勧めです。飛行機やクルーズ船と違って安いし、予約も要らないし、満席になることもなさそう。

2)西カリブ
キューバ・ジャマイカ・ハイチなど個性の強い面白い国がある地域です。東カリブと異なり、島々の間が離れていることもあり、飛行機を使うのが便利で経済的です。フェリーはほとんどありません。資金と時間に余裕がある人は周遊クルーズ船にのるという手もあります。飛行機の場合、アメリカ国内の法律でアメリカ人の渡航が禁止されているキューバを除けば、アメリカのマイアミやプエルトリコからの便が便利です。ちなみに米系大手5社(UA AA CO DL NW)の中でカリブに強いのはAA系だと思います。私はバハマ→T・ケイコス→ジャマイカ→ケイマン→キューバ→メキシコと回りましたが、特定の会社の周遊券やお得なセットは見つけられず、KingAir、ジャマイカ航空、ケイマン航空、キューバ航空、などマイナーな航空会社のチケットを組み合わせてノーマルで買っていきました。

2009年3月2日月曜日

世界の銭湯・温泉・公衆浴場

ザ東京銭湯(町田忍)という本を買って読みました。 
日本文化の一つ、銭湯ですが、すっかり斜陽産業になっていて、全国では一日に一件、東京でも週に1件のペースで廃業しているそうです(p76)。アールデコ様式の廿世紀浴場や、千と千尋の神隠しの湯屋のモデルとなった子宝湯も、最近閉鎖に追い込まれてしまった・・・何とも残念。そういえば駅前にあった銭湯、いつの間にかなくなっていたな。
本を読んで、三助さんは日本に一人しか残っていないことを知り、びっくり。自分自身三助さんを見たことはないですけど。日暮里の斎藤湯で「流しサービス」が受けられるようです。わずか400円。http://saito-yu.jugem.jp/?eid=208 


ところで、風呂好きな私は、機会あるごとに海外の公衆浴場を見て歩きました。すぐに思い出せる限りで世界各地の銭湯・公衆浴場・温泉・サウナ事情をまとめると以下のとおり。

リクエストがあれば、浴場の外観(中は撮影できないので)をまとめてアルバムも作ってみます。ソロモンのアルバムの中にも、温泉を利用した水浴びシーンが見られます。




北アジア
韓国: 日本統治時代のなごりか、非常に日本の銭湯に近い。客は日本同様すっぽんぽんですですが、タオルで前も隠さないのが違う点か。アカスリが気持ちいい。日本で韓国式アカすりというと風俗店が多いですが、韓国では男性には男性のアカすり師がつく健全なものです。24hやっている店もあって、私もソウルの中心部で見つけると宿代わりに泊まって行っちゃいます。
北朝鮮: 日本統治時代湯治客でにぎわった南浦に行きました。大浴場はなく、個室で入る方式でしたが。塩水を使っているのかしょっぱかったです。
中国: 風俗もありますが、健全な店も。韓国式に似ています。北京五輪間際の北京では取り締まりが厳しく外国人は入店できず。。。。このときの顛末はいずれ書いてみたいです。同時期に行った内蒙古自治区の満州里のそれ(湯池と書いてあったような)は、中は韓国式でアカすりもやってました。日本の駅前サウナのように、リクライニングシートで朝まで寝ていけるようでした。外国人が朝まで泊まれるかは不明。
台湾: 温泉が多いようですが、まだどこにも行っていません・・・
モンゴル: 日系ホテルに日本式銭湯があった。モンゴル人と思われる青年がブリーフをはいたまま洗い場で体を洗っていた。サウナの中ではふるちんでなぜかスクワット運動しているおじさんが・・・日本人ぽかったが怖かったので無視した。

東(東南)アジア
あまり記憶がないです。蒸し暑いので、国全体がサウナみたいなものですが。インドネシアは、トイレのある部屋に常時水がはってあって、ひしゃくですくって水浴びできるようになっているところが多かった。

南アジア
インド・バングラ・スリランカ:川や池で沐浴する文化があります。すっぽんぽんにはなりません。気温が高いので、お湯を浴びる必要はないのか、ハマムのようなものは見なかった気がする。

西アジア
トルコ:なんといってもトルコのハマム。オスマントルコ時代にそのハマム文化を北アフリカ・西アジアに広く普及させた。本場ブルサにはまだ行っていないけど、どこの町にもハマムがあるのがうれしい。トルコレスリングをやっていたようなごついオヤジがアカすりとマッサージをしてくれる。イスタンブールのハマムは観光客用が多く、バカ高い。
イラン: アゼルバイジャン地方タブリーズなどを中心に、テヘランなど各地にあった。トルコのハマムのようなエレガントさはない。結構温泉があるようだが私は未訪問。
アフガニスタン: マザリシャリフのハマムはシャワー屋だった。ヘラートのハマムは、公衆洗い場もあって面白そうだったが、外国人ということでか個室シャワーに案内された。バーミヤン近郊にぬるい露店温泉があったが入っている人はなし。
イラク: 南部でも冬場にはハマムがあくらしい。北部アルビルのハマムはシャワー屋だった。
シリア: トルコ式ハマムが結構ある。他人と共用の臭いアカすりタオルで顔や体をこすられて不快になった記憶あり。ダマスカスには観光客も来るきれいなハマムもある。
レバノン: トリポリのハマムはきれい。ベイルートのは怪しい。
ヨルダン: 不潔
イエメン: サナアには結構あったが、ハドラマウトにはないかも。地元利用客がほとんど。
湾岸諸国: まったく見なかった。

アフリカ:
北アフリカ
モロッコ: マラケシュ・フェズなどで。観光客の利用も多いが、トルコのようにぼったくりはなく、いい感じ。
チュニジア: 夏場で休業中・改装中が多かったが、チュニスで3軒回った。いずれその時の様子を詳しく書いてみたい。
アルジェリア: アルジェで一つ訪問。チュニジア方式に近い。
リビア: 普通のハマムは見つけられなかったけれど、スパに行った。最高に面白いので、いつかレポートを書きたい。
エジプト: カイロで訪問。寂れているし不潔で薄気味悪い。ゴキブリがはっていた。どんどん廃業が進んでいるよう。

サブサハラのアフリカでは公衆浴場の文化は見なかったように思う。川で体を洗うのはどこの国でも見られた。
ウガンダ: フォートポータル近郊。森の中で温泉が沸騰してお湯がわき出ているのに、温泉としての利用はなし。もったいない。地元民がゆで卵をゆでに来ていた。


ヨーロッパ
北欧:
各家庭にサウナがある。アイスランドのブルーラグーン(地熱を利用した巨大露店温泉。シリカ成分で神秘的な青色。)この温泉に入るためだけにでもアイスランドに行く価値がある。
西欧:
ドイツは、混浴かつスッポンポンでスパに入る習慣があるらしいが未訪問
東欧:
ハンガリーは温泉大国ですが、私は温泉未訪問。
CIS:
ロシアもサウナがかなり根付いている。
カザフスタン: トルコ式&フィンランド式&ロシア式公衆浴場アラシャンに行ったが、文化として根付いているわけではない。
ウズベキスタン:トルコ式ハマムがあるようだが、私は未訪問
アゼルバイジャン: ハマムと言われているところはあったが、2か所ともシャワー屋だった。
グルジア: トビリシ(温泉の意味だと聞いた気がする)で一つあった。湯船があって日本の銭湯みたいだった。すっぽんぽんで入る。

米大陸
北米:
閉鎖空間でゴミゴミしたところを好まないためか、北米の人には温泉を好ましくないと思う人も多い。プライベートな空間でゆっくりバスタイムを楽しむ方がライフスタイルに合うのだろう。アメリカ人の友人が来日時温泉に連れていこうと思ったが、人前で裸になるなんて絶対いやだと言われた。
中米:
メキシコにVaporといわれる施設があった。サウナの一種だが、湿度が高くてずぶぬれ状態に。
カリブ:
ドミニカに温泉がわいていたが温泉としての利用はなし
南米:
ペルーのアグアカリエンテ(温かい水の意味)の温泉、ちょっとぬるいけどおすすめ。

オセアニア他
ソロモン: サボ島で温泉を井戸のように囲って体を洗うのに利用していた
NZ: 日本同様火山列島のNZにも温泉が多い。私は未訪問
南極半島: 温泉が湧いていてスコップで砂を掘ってツアー参加者と入った。お湯は温かいのだが気温が低いので長時間は無理。