賄賂を要求されたらどうする?
あくまで旅行者として普通に旅行していて、落ち度がない場合を想定しています。旅行者の間では一般に「賄賂」と呼ばれていますが、実際には「公務員による恐喝」と表現できる場合が多いです。なお、ビジネスマンの目から見た腐敗ランクや対応策は大きく異なることが予想されます。
* 腐敗ランク
1 中部アフリカ
ぶっちぎりの一番は中部アフリカです。赤道ギニアは、同じ部屋でも担当者ごとに要求。まるで流れ作業、ベルトコンベアに載せられた製品になったような気分になります。カメルーンでは「この国では公共サービスは無料ではない」と開き直られました。カメルーンのドアラで、写真を取っていたら、軍人が「俺を撮っただろ」と言いがかり。私はデジカメ画像を見せて彼が写っていないことを証明するも、逆上した軍人がデジカメを没収。はじめから「手数料目的」の公務員が国中にいる。
2 西部アフリカ CIS(特に中央アジア)
外国人旅行者に対してではなくバスのドライバーなどに対する要求が多いため、直接の被害を受ける頻度は中部アフリカと比べたら下がります。時々非常に悪質な役人がいます。ナイジェリアのアバで、警察に「クリスマスプレゼント」を要求され、バスの乗客全員で団結して拒絶したところ、バスから降ろされ強制徴収。嫌がらせのための荷物検査を拒んで鞭を振るわれた人もいました。シエラレオネ・リベリアなどはゲリラ・諜報機関上がりもいるので下手に抵抗すると危ないです。
3 東アフリカ 北アフリカ 南アジア
対応しだいで何とかしのげる場合がほとんどだと思います。いくつかのやり取りは、楽しい思い出として残っています。
* 対応パターン
国・相手・自分の状況によって使い分けていますが、大体以下の順で対応しています。
8)以下は、役人が味を占めて他の旅行者を狙うケースを誘発してしまうので、最後の手段としています。
1)レシートをよこせ 出せないなら払えない。
「レシートを出せる正当な手数料なら払いますよ」というのがポイント。一番使うパターン。レシーボ(西)。レシュ(仏)。
2)俺は貧しい
俺は学生なんだ、は年齢的に使えなくなりましたが、中東など老け顔地帯では試して見る価値あり。
荷物が少ない私は、荷物が盗まれて金に困っているふりをすることがあります。こんなに困っている俺からいったい何をとるのだ、と。
3)親しくする
握手して友好を図る。現地語を片言でも話す。あんたはxx(その国の人気俳優や歌手)に似ているね、等言ってみる。ライバル国・隣国の悪口を一緒になっていう。隣の国のポリスは腐っていたけどこの国のポリスは最高だ、など。自分や自国にいい感情を持っている旅人には良くしてやろうという気になるのは万国共通。その国のことをよく知っていてかつ時間が十分にあるときには使える。
4)貴国大使館で、必要ないといわれている
「ビザを取得していればそれだけで入国できる。国境で手数料などを支払う必要は一切ない」とあなたの国の大使に言われているという。たとえ嘘でも。「地元の人が払っているのだからお前も払え」というようなときは、これを使う。すでに貴国大使館でビザ代をこんなに収めているのだと。
5)日本大使館に連絡しろ。させてくれ。
観光立国や日本の援助を受けている国の場合有効。あらかじめ現地日本大使館の電話を控えておくことが大切。大使館に迷惑がかかるので、今まで3回くらいしか使っていません。
6)冗談を言ってみる [公開できません]
イスラム圏では禁句です。冗談が通じる人であることを見極めてから言う必要があります。裏目に出ると怖いです。
7)また、今度。ブクラ インシャーアッラー
断られても仕方ない、だめもとで言ってみよう、という控えめな要求をされたときのみ使えます。イスラム圏 共産圏で意外と使える
8)代わりに物をあげる
キーホルダー、アニメのシール(役人の子供用に)、あまっているお菓子などなど。
100円ショップで買った3本100円の4色ボールペン
飛行機機内でもらうアメニティグッズも使える。30ドル払えといって値引きにも応じなかったコンゴの女が、エミレーツのエコノミークラスのアメニティ(靴下・歯ブラシなど)であっさりOKになった。
ハードムスリムの国では、女性の写真(ポケットティッシュの裏広告)でもいける。女性は目の大きいモデルにすること。
タバコを吸う人ならタバコでもOK.
9)値切って支払う
口頭で値切ることなく適当な額だけ握らせて立ち去るほうがスマート。地元の人が良くやるパターンだが相場を知っている必要がある
10)言われるままに支払う
最後の手段。特別急いでいるとき。地元の人も高額の支払いをしているとき、など。社交儀礼の範囲内で収める。
個々のエピソードはたくさんありますが、またの機会とします。
2009年3月31日火曜日
2009年3月30日月曜日
1 きっかけは福江島
私が世界を旅したいと強く思うようになったきっかけは、はじめての一人旅で訪れた長崎県五島列島福江島のおばあちゃんとの出会いだったように思います。
長崎といえば鎖国時代にも海外に開かれていた国際色豊かな地。上海、香港、台湾、韓国は目と鼻の先です。高校生だった私は、長崎のエキゾチックなイメージにひかれて、JRの青春18切符を手にやってきました。オランダ坂、浦上天主堂、長崎ちゃんぽん・・・長崎は期待通り異国ムードあふれる町でした。
しかし、そこから船に乗って行った福江島は異国ムードとは無縁の素朴な離島でした。季節はずれの離島は観光客も少なく、宿泊したユースホステルは貸し切り状態でした。ホステルを出てしばらく歩くと、すれ違う人もいません。東京で生まれ常に人に囲まれて育った私にとって、散歩していてすれ違う人がいないことはそれだけで大事件でした。歩いているだけで、究極の自由を手にした気がしました。
究極の自由も長く続きすぎると不安に変わります。店もないし歩行者と会わないので道一つ聞けません。やっと出会えた人は、80歳くらいの小柄なおばあちゃんでした。東京では道で人とすれ違ってもそのまま通り過ぎるだけですが、おばあちゃんは、私に「どこから来たか」と声をかけてきました。「東京から来た」と答える私に、「遠くからよく来た」としきりに感心しています。聞けば、彼女は、生まれてこのかた一度も島を出たことがないといいます。海外や東京はもちろん、県庁のある長崎市にも行ったことがありません。太平洋戦争、長崎に原爆投下、朝鮮戦争、高度成長期、東京オリンピック、オイルショック、冷戦終結・・・激動の20世紀を、本土から隔離された福江島でどのように見つめ、そして感じていたのでしょうか。
おばあちゃんが、福江島を愛しているというのは想像できます。けれど、島を一歩出ればまったく別の世界があるのに、それを見たいと思わないのが不思議でなりませんでした。一度くらい島を出て、東京とか富士山とか道後温泉とか行ってみたいと何故思わないでしょうか。大阪のお好み焼きとか、名古屋の味噌田楽とか、秋田のきりたんぽとか、食べずに死んでしまってもいいのでしょうか。私にはおばあちゃんが不幸な籠の鳥に見えました。ずっと島から出ないで一生を送るなんて、生まれてきた意味がないと思いました。そんな退屈な人生は自分には耐えられないと思いました。
けれど、よくよく考えて見ると、日本列島を出たことのない自分と福江島を出たことのないおばあちゃんにはそれほど違いがないことに気づきました。世界標準の世界地図で見れば、日本列島全体が東の端っこのちっぽけな小島なのです。アメリカ人から見たら私もおばあちゃんも日本しか知らないという点で全く同じです。世界にはいろんな人が住んでいて、さまざまな文化があり、それぞれの暮らしがあるはず。それなのに、それを見ないで日本という島に閉じこもっているというのは、お好み焼きを食べることなく死んでしまうくらいもったいないことだと思いました。
福江島から長崎市に戻る船の中で、おばあちゃんとの出会いを反芻しながら、将来は絶対にいろんな国を見てくるぞと心に決めました。
* おばあちゃんはかわいそうな人?
今思えば、福江島のおばあちゃんは不幸な籠の鳥ではありませんでした。おばあちゃんは、家族と島に生活するだけで満ち足りていて、外に行きたいとも思わない人だったということです。言い換えれば、幸せを内に見つけられた人でした。人は仕事・家庭・子供・彼氏彼女など大切なものに出会ったとき、旅よりもそれを優先するし、旅なんか必要ですらなくなる。私がいつまでたっても旅をやめられないのは、旅よりも大切なものにめぐり合っていないというだけかもしれません。
長崎といえば鎖国時代にも海外に開かれていた国際色豊かな地。上海、香港、台湾、韓国は目と鼻の先です。高校生だった私は、長崎のエキゾチックなイメージにひかれて、JRの青春18切符を手にやってきました。オランダ坂、浦上天主堂、長崎ちゃんぽん・・・長崎は期待通り異国ムードあふれる町でした。
しかし、そこから船に乗って行った福江島は異国ムードとは無縁の素朴な離島でした。季節はずれの離島は観光客も少なく、宿泊したユースホステルは貸し切り状態でした。ホステルを出てしばらく歩くと、すれ違う人もいません。東京で生まれ常に人に囲まれて育った私にとって、散歩していてすれ違う人がいないことはそれだけで大事件でした。歩いているだけで、究極の自由を手にした気がしました。
究極の自由も長く続きすぎると不安に変わります。店もないし歩行者と会わないので道一つ聞けません。やっと出会えた人は、80歳くらいの小柄なおばあちゃんでした。東京では道で人とすれ違ってもそのまま通り過ぎるだけですが、おばあちゃんは、私に「どこから来たか」と声をかけてきました。「東京から来た」と答える私に、「遠くからよく来た」としきりに感心しています。聞けば、彼女は、生まれてこのかた一度も島を出たことがないといいます。海外や東京はもちろん、県庁のある長崎市にも行ったことがありません。太平洋戦争、長崎に原爆投下、朝鮮戦争、高度成長期、東京オリンピック、オイルショック、冷戦終結・・・激動の20世紀を、本土から隔離された福江島でどのように見つめ、そして感じていたのでしょうか。
おばあちゃんが、福江島を愛しているというのは想像できます。けれど、島を一歩出ればまったく別の世界があるのに、それを見たいと思わないのが不思議でなりませんでした。一度くらい島を出て、東京とか富士山とか道後温泉とか行ってみたいと何故思わないでしょうか。大阪のお好み焼きとか、名古屋の味噌田楽とか、秋田のきりたんぽとか、食べずに死んでしまってもいいのでしょうか。私にはおばあちゃんが不幸な籠の鳥に見えました。ずっと島から出ないで一生を送るなんて、生まれてきた意味がないと思いました。そんな退屈な人生は自分には耐えられないと思いました。
けれど、よくよく考えて見ると、日本列島を出たことのない自分と福江島を出たことのないおばあちゃんにはそれほど違いがないことに気づきました。世界標準の世界地図で見れば、日本列島全体が東の端っこのちっぽけな小島なのです。アメリカ人から見たら私もおばあちゃんも日本しか知らないという点で全く同じです。世界にはいろんな人が住んでいて、さまざまな文化があり、それぞれの暮らしがあるはず。それなのに、それを見ないで日本という島に閉じこもっているというのは、お好み焼きを食べることなく死んでしまうくらいもったいないことだと思いました。
福江島から長崎市に戻る船の中で、おばあちゃんとの出会いを反芻しながら、将来は絶対にいろんな国を見てくるぞと心に決めました。
* おばあちゃんはかわいそうな人?
今思えば、福江島のおばあちゃんは不幸な籠の鳥ではありませんでした。おばあちゃんは、家族と島に生活するだけで満ち足りていて、外に行きたいとも思わない人だったということです。言い換えれば、幸せを内に見つけられた人でした。人は仕事・家庭・子供・彼氏彼女など大切なものに出会ったとき、旅よりもそれを優先するし、旅なんか必要ですらなくなる。私がいつまでたっても旅をやめられないのは、旅よりも大切なものにめぐり合っていないというだけかもしれません。
2009年3月29日日曜日
世界三大仏教遺跡 誰が決めた?
アンコールワット(カンボジア)・バガン(ミャンマー)・ボロブドゥール(インドネシア)の3つが世界三大仏教遺跡と呼ばれることがあります。
私はこの3つの寺院群とも訪問する機会がありましたが、比較してみると以下のとおりです。
・歴史の古さ: ボロブドゥール(8c-)>バガン(9c-)>アンコール(12c-)
どれも比較的新しいものばかりです。法隆寺だってこれらより古いですね。アンコールがけっこう新しいことが私にとっては意外でした。
・保存状態の良さ: バガン>ボロブドゥール>アンコール
ボロブドゥールが密林の中から発見されたのが19cで、修復というより再建築ではないかと感じました。
アンコールは、カンボジア内戦の影響、技術的に稚拙な修復(フランス)のせいでいまいちです。大半の仏像は、頭部が美術品として持ち去られて無残な姿をさらしています。
バガンは、建設以来仏教徒が住み、継続的に修復されてきた寺も多いため、保存状態はとても良いです。
・見晴らしの良さ: バガン>ボロブドゥール>アンコール
バガンの一面見渡す限りの寺院群を夕暮れ時に見ると言葉を亡くします。アンコールは、代々の支配者が、その都度寺を建設していったので、統一感に欠けるし、見晴らしスポットがありません。
こうして見ると、アンコールって、大したことないように見えますが、私が一番感動したのはアンコールでした。崩れかけた寺・木の根に押しつぶされそうな寺など、個々の寺それぞれが、いい味を出しています。クメールルージュの支配のもと弾圧された宗教復活への意気込み、そして村との一体感や生活感があるのも好きな理由です。
他方、ボロブドゥールは、ちょっとがっかりでした。もてはやされているのは、ジャングルの中から近代に発見されたという発掘逸話と世界最南端という地理的な理由からでしょうか。
私が感銘を受けた順に並べると以下の順になります。
アンコール>>バガン>>ボロブドゥール
ところで、この「世界三大仏教遺跡」のセレクション、誰が決めたのでしょうか。
私が以前調べた限り、世界三大仏教遺跡と言って騒いでいるのは日本だけです。発信源はガイドブックだと推測しますが、世界に数ある素晴らしい仏教遺跡の中で、なぜこの3つが選ばれたのでしょうか。
欧米のガイドブックにも「世界三大仏教遺跡」のような言葉は出てきません。遺跡は一般に古いものほど価値があるのにこれら「三大」は比較的新しいものばかりで、しかも、メッカやバチカンのように世界的なセンターとして僧や信者を集めたことがないのだから当然でしょう。
アジアの人だって納得いかないでしょう。早くから仏教文化が開花し現在も熱心な仏教国(スリランカやタイ)を差し置いてイスラム教国インドネシアの遺跡が選ばれているのは心外ではないでしょうか。
ボロブドゥール程度の遺跡であれば、人類史上意義のある候補を出せそうな国や地域はほかにもあります。
・仏教発祥地であり世界中から修行僧を集めたインド
・お釈迦様誕生の国で現在も仏教徒のいるネパール
・東アジアの仏教センターであり寺の数では世界一の中国
・チベット仏教本山のチベット
・上座部仏教の要スリランカ
・カイラスを守護していたもう一つのチベット仏教本山ブータン
・世界一の立仏があったアフガニスタン
・仏像が生まれたガンダーラ(パキスタン)
・世界最西の仏教遺跡が発見されたイラン
・対GDP比寺院投資額世界一?のタイ
・仏教の世界進出・ヨーロッパの仏教国カルムイキア
・世界最北の仏教国ブリヤート
・世界最東の仏教国で最古の木造寺を有する日本
などなど
「三大」を選定するのなら私は、仏教の3大宗派である大乗Mahāyāna・上座部仏教Theravada・チベット仏教からバランスよく選ぶ必要があると思います。
まず、はずすことのできないアンコールは大乗仏教(一部ヒンズー教)の寺院です。
上座部仏教の遺跡なら、ミャンマーのバガンよりもはるかに古い3世紀からの遺跡であるスリランカのアヌラーダプラが適切ではないでしょうか。上座部仏教はスリランカからタイやミャンマーへ伝播したとされています。
チベット仏教の代表は、ジョンカン寺などラサの寺院群で争いなしではないでしょうか。
したがって、私が独断と偏見で三大仏教遺跡群を選ぶとするならば以下の3つです。
・アンコール(カンボジア・大乗)
・アヌラーダプーラ(スリランカ・上座部)
・ラサ(チベット・チベット仏教)
参考:
*仏教の伝播 (Wikiより引用)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99
* 紀元前5世紀頃 : インドで仏教が開かれる(インドの仏教)
* 紀元後1世紀 : 中国に伝わる(中国の仏教)
* 3世紀 : セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
* 4世紀 : 朝鮮半島に伝わる(韓国の仏教)
* 538年 : 日本に伝わる(日本の仏教)
* 7世紀前半 : チベットに伝わる(チベット仏教)
* 11世紀 : ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)
* 13世紀 : タイに伝わる(東南アジアの仏教)
* 13-16世紀 : モンゴルに伝わる(チベット仏教)
* 17世紀 : カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)
* 18世紀 : 南シベリアに伝わる(チベット仏教)
アンコールワット
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88
バガン
ボロブドゥール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1
*イランに仏教遺跡?13世紀、モンゴル人造営か…龍谷大調査
(読売新聞より引用)
壁面にくぼみが残るバルジュビ遺跡(10月22日撮影)=龍谷大提供
龍谷大(京都市)の学術調査隊は7日、イラン北西部のバルジュビ遺跡で、「13世紀頃に造営された仏教寺院とみられる石(せっ)窟(くつ)を確認した」と発表した。この時期、イランに勢力を広げたモンゴル人によるものと推定しているが、仏像や壁画、年代を特定できる遺物は見つかっておらず、今後の調査が期待される。
調査隊によると、石窟で九つの部屋を発見。うち2室の壁面などにくぼみ(高さ約70センチ、幅約45センチ、奥行き約25センチ)が18個あるのを確認した。形状が中国・敦煌石窟で仏像を安置した「仏(ぶつ)龕(がん)」と似ており、仏教遺跡と判断したという。
イランでは13~14世紀、モンゴル人がイル・ハン朝を建てており、調査隊代表の入沢崇教授(仏教文化学)は「イル・ハン朝はイスラム教に改宗する前、チベット仏教を信仰しており、彼らが仏教を持ち込んだ可能性が高い」としている。
山内和也・東京文化財研究所室長(イラン考古学)の話「今回の成果だけでは仏教寺院という確証は得られず、今後、イラン政府と協力して正式な調査を進め、さらに物証を集める必要がある」
(2008年11月8日 読売新聞)http://osaka.yomiuri.co.jp/university/research/20081108-OYO8T00281.htm
私はこの3つの寺院群とも訪問する機会がありましたが、比較してみると以下のとおりです。
・歴史の古さ: ボロブドゥール(8c-)>バガン(9c-)>アンコール(12c-)
どれも比較的新しいものばかりです。法隆寺だってこれらより古いですね。アンコールがけっこう新しいことが私にとっては意外でした。
・保存状態の良さ: バガン>ボロブドゥール>アンコール
ボロブドゥールが密林の中から発見されたのが19cで、修復というより再建築ではないかと感じました。
アンコールは、カンボジア内戦の影響、技術的に稚拙な修復(フランス)のせいでいまいちです。大半の仏像は、頭部が美術品として持ち去られて無残な姿をさらしています。
バガンは、建設以来仏教徒が住み、継続的に修復されてきた寺も多いため、保存状態はとても良いです。
・見晴らしの良さ: バガン>ボロブドゥール>アンコール
バガンの一面見渡す限りの寺院群を夕暮れ時に見ると言葉を亡くします。アンコールは、代々の支配者が、その都度寺を建設していったので、統一感に欠けるし、見晴らしスポットがありません。
こうして見ると、アンコールって、大したことないように見えますが、私が一番感動したのはアンコールでした。崩れかけた寺・木の根に押しつぶされそうな寺など、個々の寺それぞれが、いい味を出しています。クメールルージュの支配のもと弾圧された宗教復活への意気込み、そして村との一体感や生活感があるのも好きな理由です。
他方、ボロブドゥールは、ちょっとがっかりでした。もてはやされているのは、ジャングルの中から近代に発見されたという発掘逸話と世界最南端という地理的な理由からでしょうか。
私が感銘を受けた順に並べると以下の順になります。
アンコール>>バガン>>ボロブドゥール
ところで、この「世界三大仏教遺跡」のセレクション、誰が決めたのでしょうか。
私が以前調べた限り、世界三大仏教遺跡と言って騒いでいるのは日本だけです。発信源はガイドブックだと推測しますが、世界に数ある素晴らしい仏教遺跡の中で、なぜこの3つが選ばれたのでしょうか。
欧米のガイドブックにも「世界三大仏教遺跡」のような言葉は出てきません。遺跡は一般に古いものほど価値があるのにこれら「三大」は比較的新しいものばかりで、しかも、メッカやバチカンのように世界的なセンターとして僧や信者を集めたことがないのだから当然でしょう。
アジアの人だって納得いかないでしょう。早くから仏教文化が開花し現在も熱心な仏教国(スリランカやタイ)を差し置いてイスラム教国インドネシアの遺跡が選ばれているのは心外ではないでしょうか。
ボロブドゥール程度の遺跡であれば、人類史上意義のある候補を出せそうな国や地域はほかにもあります。
・仏教発祥地であり世界中から修行僧を集めたインド
・お釈迦様誕生の国で現在も仏教徒のいるネパール
・東アジアの仏教センターであり寺の数では世界一の中国
・チベット仏教本山のチベット
・上座部仏教の要スリランカ
・カイラスを守護していたもう一つのチベット仏教本山ブータン
・世界一の立仏があったアフガニスタン
・仏像が生まれたガンダーラ(パキスタン)
・世界最西の仏教遺跡が発見されたイラン
・対GDP比寺院投資額世界一?のタイ
・仏教の世界進出・ヨーロッパの仏教国カルムイキア
・世界最北の仏教国ブリヤート
・世界最東の仏教国で最古の木造寺を有する日本
などなど
「三大」を選定するのなら私は、仏教の3大宗派である大乗Mahāyāna・上座部仏教Theravada・チベット仏教からバランスよく選ぶ必要があると思います。
まず、はずすことのできないアンコールは大乗仏教(一部ヒンズー教)の寺院です。
上座部仏教の遺跡なら、ミャンマーのバガンよりもはるかに古い3世紀からの遺跡であるスリランカのアヌラーダプラが適切ではないでしょうか。上座部仏教はスリランカからタイやミャンマーへ伝播したとされています。
チベット仏教の代表は、ジョンカン寺などラサの寺院群で争いなしではないでしょうか。
したがって、私が独断と偏見で三大仏教遺跡群を選ぶとするならば以下の3つです。
・アンコール(カンボジア・大乗)
・アヌラーダプーラ(スリランカ・上座部)
・ラサ(チベット・チベット仏教)
参考:
*仏教の伝播 (Wikiより引用)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99
* 紀元前5世紀頃 : インドで仏教が開かれる(インドの仏教)
* 紀元後1世紀 : 中国に伝わる(中国の仏教)
* 3世紀 : セイロン島(スリランカ)に伝わる(スリランカの仏教)
* 4世紀 : 朝鮮半島に伝わる(韓国の仏教)
* 538年 : 日本に伝わる(日本の仏教)
* 7世紀前半 : チベットに伝わる(チベット仏教)
* 11世紀 : ビルマに伝わる(東南アジアの仏教)
* 13世紀 : タイに伝わる(東南アジアの仏教)
* 13-16世紀 : モンゴルに伝わる(チベット仏教)
* 17世紀 : カスピ海北岸に伝わる(チベット仏教)
* 18世紀 : 南シベリアに伝わる(チベット仏教)
アンコールワット
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%83%E3%83%88
バガン
ボロブドゥール
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%81%BA%E8%B7%A1
*イランに仏教遺跡?13世紀、モンゴル人造営か…龍谷大調査
(読売新聞より引用)
壁面にくぼみが残るバルジュビ遺跡(10月22日撮影)=龍谷大提供
龍谷大(京都市)の学術調査隊は7日、イラン北西部のバルジュビ遺跡で、「13世紀頃に造営された仏教寺院とみられる石(せっ)窟(くつ)を確認した」と発表した。この時期、イランに勢力を広げたモンゴル人によるものと推定しているが、仏像や壁画、年代を特定できる遺物は見つかっておらず、今後の調査が期待される。
調査隊によると、石窟で九つの部屋を発見。うち2室の壁面などにくぼみ(高さ約70センチ、幅約45センチ、奥行き約25センチ)が18個あるのを確認した。形状が中国・敦煌石窟で仏像を安置した「仏(ぶつ)龕(がん)」と似ており、仏教遺跡と判断したという。
イランでは13~14世紀、モンゴル人がイル・ハン朝を建てており、調査隊代表の入沢崇教授(仏教文化学)は「イル・ハン朝はイスラム教に改宗する前、チベット仏教を信仰しており、彼らが仏教を持ち込んだ可能性が高い」としている。
山内和也・東京文化財研究所室長(イラン考古学)の話「今回の成果だけでは仏教寺院という確証は得られず、今後、イラン政府と協力して正式な調査を進め、さらに物証を集める必要がある」
(2008年11月8日 読売新聞)http://osaka.yomiuri.co.jp/university/research/20081108-OYO8T00281.htm
2009年3月28日土曜日
グルジア 生きていたグルジア正教
* 生きていたグルジア正教
少女が教会の前で立ち止まり、控えめに十字を切って、小走りに走り去っていった。裏通りにある小さなグルジア正教の教会の前の小道だ。
「なんて美しい光景だろう。」
私は金縛りにあったようにその場に立ちすくんだ。アゼルバイジャンから陸路グルジアにやってきた私は、このような光景に出会うことを全く予想していなかったから・・・。
共産革命前まで「イスラム教国」だったアゼルバイジャンは、とても世俗的な国になっていた。街中でお祈りしている人を見かけることはなく、お祈りの呼びかけ(アザーン)を聞くこともなく、モスクすら見あたらなかった。無理もない。ソ連内部の共和国であったコーカサス諸国(アゼルバイジャン・グルジア・アルメニア)では、70年に及ぶ共産主義の下「宗教はアヘン」として弾圧されたはずだから。
「70年という月日はひとつの文化や宗教を抹殺してしまうのに十分だったのだ」
アゼルバイジャンの首都バクーや北部の町ゲンジェを旅しながら、そう私は感じていた。
アゼルバイジャンの隣国グルジアでも、一度葬り去られた宗教が復活していることはないだろうと思った。教会があったとしても観光用に過ぎないのだろうと。 ガイドブックにもソ連時代には多くの教会が劇場や牢屋として使われていたと書いてあったのだ。
だから、グルジアで、お年寄りのみならず小さな少女までが、神に対する敬虔な宗教心を持っているのを目の当たりにして、いたく感銘を受けた。
私は吸い寄せられるように、教会の中に入っていった。入り口は石の階段を少し降りたところにあった。カトリックやプロテスタントでは階段を上って入り口があるところが多いが、下がり階段は正教の特色なのか、それともこの教会特有の点なのだろうか。
薄暗い教会の中は、心洗われるような歌声と、窓から差し込む光で、神々しい雰囲気に包まれていた。いかにも異教徒の私が入っていくのは少し申し訳なかったけれど、私の存在を気に止める人は誰もいないようだ。
石造りの質素な空間には、長椅子は並んでおらず、信者が30人くらい立っていた。石造りの建物の内壁にはイコン絵の小さな額縁がいくつも掛けられている。これまでに見たカトリック・プロテスタント教会とはずいぶんと違う気がする。
黒帽子をかぶり、ゆったりとした黒服を着て、お香の入った金属の入れ物を振り歩いている人が神父であろう。神父は周りを取り囲む信者の額に十字架を当て、そのあと手のひらサイズの箒のようなものを振りかざす。まるで邪悪な気を取り払うおまじないのように見えるがどんな意味があるのだろう。
十字の切り方は、上→下→右肩→左肩の順だから、ギリシャ正教その他の正教(オーソドックス)と同じようだ。カトリック・プロテスタントと順序が異なるのはなぜだろう。
信者は老若男女。家族連れもいる。出勤前に立ち寄ったのか、スーツの男性もいる。女性は黒服が圧倒的に多く、皆スカーフで髪を覆っている。お辞儀している人、ひざまづいている人、左頬を寄せて柱にキスしている人、細長いろうそくに火をつけている人、・・・さまざまで面白い。
熱で曲がった蝋燭がじりじりと音を立てて溶けていくのを見つめながら、中世の雰囲気に浸っていた私は、大きな音とともに不意に現代に引き戻された。
誰かの携帯電話が鳴ったのだ。
(グルジア訪問1回目2000年時の手記。2回目訪問は2006年)
* コーカサスにおける宗教弾圧の程度(私見)
コーカサス3カ国の中で、アルメニア・グルジアのキリスト教国は信心深い人が多いのに、イスラム教国のアゼルバイジャンはとても世俗的に見えた。この違いはどこから来るのだろうか。
思うに、アゼルバイジャンの場合は、トルコ・トルコ系共和国との団結や国境を接するイランの影響を阻害・排除するためにイスラム教を徹底的に弾圧する必要があった。対して、オーソドックス(正教)を通じて影響力を行使しうる隣国は存在しないので、ロシア正教・グルジア正教などの弾圧は徹底していなかった。他にいくつも要因があるだろうが、グルジア・アゼルバイジャンの宗教心の復活度における際立った違いの裏には、このような背景があるのではないだろうか。このあたりの事情をご存知の方、ご連絡いただければ幸いです。
少女が教会の前で立ち止まり、控えめに十字を切って、小走りに走り去っていった。裏通りにある小さなグルジア正教の教会の前の小道だ。
「なんて美しい光景だろう。」
私は金縛りにあったようにその場に立ちすくんだ。アゼルバイジャンから陸路グルジアにやってきた私は、このような光景に出会うことを全く予想していなかったから・・・。
共産革命前まで「イスラム教国」だったアゼルバイジャンは、とても世俗的な国になっていた。街中でお祈りしている人を見かけることはなく、お祈りの呼びかけ(アザーン)を聞くこともなく、モスクすら見あたらなかった。無理もない。ソ連内部の共和国であったコーカサス諸国(アゼルバイジャン・グルジア・アルメニア)では、70年に及ぶ共産主義の下「宗教はアヘン」として弾圧されたはずだから。
「70年という月日はひとつの文化や宗教を抹殺してしまうのに十分だったのだ」
アゼルバイジャンの首都バクーや北部の町ゲンジェを旅しながら、そう私は感じていた。
アゼルバイジャンの隣国グルジアでも、一度葬り去られた宗教が復活していることはないだろうと思った。教会があったとしても観光用に過ぎないのだろうと。 ガイドブックにもソ連時代には多くの教会が劇場や牢屋として使われていたと書いてあったのだ。
だから、グルジアで、お年寄りのみならず小さな少女までが、神に対する敬虔な宗教心を持っているのを目の当たりにして、いたく感銘を受けた。
私は吸い寄せられるように、教会の中に入っていった。入り口は石の階段を少し降りたところにあった。カトリックやプロテスタントでは階段を上って入り口があるところが多いが、下がり階段は正教の特色なのか、それともこの教会特有の点なのだろうか。
薄暗い教会の中は、心洗われるような歌声と、窓から差し込む光で、神々しい雰囲気に包まれていた。いかにも異教徒の私が入っていくのは少し申し訳なかったけれど、私の存在を気に止める人は誰もいないようだ。
石造りの質素な空間には、長椅子は並んでおらず、信者が30人くらい立っていた。石造りの建物の内壁にはイコン絵の小さな額縁がいくつも掛けられている。これまでに見たカトリック・プロテスタント教会とはずいぶんと違う気がする。
黒帽子をかぶり、ゆったりとした黒服を着て、お香の入った金属の入れ物を振り歩いている人が神父であろう。神父は周りを取り囲む信者の額に十字架を当て、そのあと手のひらサイズの箒のようなものを振りかざす。まるで邪悪な気を取り払うおまじないのように見えるがどんな意味があるのだろう。
十字の切り方は、上→下→右肩→左肩の順だから、ギリシャ正教その他の正教(オーソドックス)と同じようだ。カトリック・プロテスタントと順序が異なるのはなぜだろう。
信者は老若男女。家族連れもいる。出勤前に立ち寄ったのか、スーツの男性もいる。女性は黒服が圧倒的に多く、皆スカーフで髪を覆っている。お辞儀している人、ひざまづいている人、左頬を寄せて柱にキスしている人、細長いろうそくに火をつけている人、・・・さまざまで面白い。
熱で曲がった蝋燭がじりじりと音を立てて溶けていくのを見つめながら、中世の雰囲気に浸っていた私は、大きな音とともに不意に現代に引き戻された。
誰かの携帯電話が鳴ったのだ。
(グルジア訪問1回目2000年時の手記。2回目訪問は2006年)
* コーカサスにおける宗教弾圧の程度(私見)
コーカサス3カ国の中で、アルメニア・グルジアのキリスト教国は信心深い人が多いのに、イスラム教国のアゼルバイジャンはとても世俗的に見えた。この違いはどこから来るのだろうか。
思うに、アゼルバイジャンの場合は、トルコ・トルコ系共和国との団結や国境を接するイランの影響を阻害・排除するためにイスラム教を徹底的に弾圧する必要があった。対して、オーソドックス(正教)を通じて影響力を行使しうる隣国は存在しないので、ロシア正教・グルジア正教などの弾圧は徹底していなかった。他にいくつも要因があるだろうが、グルジア・アゼルバイジャンの宗教心の復活度における際立った違いの裏には、このような背景があるのではないだろうか。このあたりの事情をご存知の方、ご連絡いただければ幸いです。
台湾 片倉佳史「台湾に生きている日本」
* 台湾に生きている日本
(アマゾンの内容紹介より引用)
50年間の統治で、日本と日本人が築いた数々の事物は、いまもこの地に生きている。歴史的建造物、産業遺産から、日本語、日本精神まで、台湾が「保存」しておいてくれたという奇跡を、われわれ日本人は見逃してはならない。台湾を愛し、日本の名残を求めて台湾全土を踏破した著者による空前の「日本遺産」ガイド。
(引用終わり)
在台湾10年超のライター片倉氏が、自分の足を使って台湾各地を歩き回り、地元の人に自らインタビューし、徹底的に調べた上で書いた渾身の一冊。地元の人に義愛公として祀られている森川巡査の話、皇民化運動のシンボルになった原住民少女サヨンの話、元日本軍将校であることを隠し蒋介石の軍事顧問として活躍した白団の話、どれもとても興味深い。
後半にまとめられている、台湾語または部族語に取り入れられ台湾に残っている日本語のコーナーも面白い。「テンプラ」(さつま揚げの意味)、「ゆっくりね」、「あいのこ」、「運動会」、「セイロガン」、「シナジン」、「おじさん・おばさん・奥さん・アニキ」、「校長先生」、「ケダモノ」などなど。
戦前日本統治時代に生まれた日本語教育世代は高齢化が進みどんどん少なくなっている。それとともに台湾に生きている日本の文化も失われていくのが非常に残念だ。
* kmの見た「台湾に生きている日本」
初めて台湾に行ったのは95年。まだ羽田から就航していた中華航空でインドネシアに行く途中で台北にストップオーバーしました。当初予定していた台南行きは、台風接近のため諦め、行く先は特に決めず台北から鈍行列車で南に向かいました。戦前の日本を思わせるような懐かしい光景に惹かれて列車を降りたのは、新竹あたりだったと思います。
ホームで写真を撮っていると、台湾人のおじいさんが「日本人ですか」と日本語で声を掛けてきました。なぜ私が日本人だと分かったのか不思議でしたが、もっと不思議に思ったのは、私と日本語を話せることがうれしくて仕方がないという彼の様子でした。日本語教育を受けた世代であるとしても、戦時中の忌まわしい思い出から日本語を聞きたくないと思っているアジアの人たちは多いし(→ 私が韓国で食堂からつまみ出された話)、戦後日本語を使う機会がなければ忘れてしまうはずだからです。
何を話したのかは覚えていませんが、私達が使うことのない古めかしい語彙が混じるほかは、訛りもなくきちんとした日本語を流暢に話すのにとても感動しました。鄙びた駅のホームの端っこでそのおじいさんは、私に日本の軍歌を2曲歌ってくれました。けれど、私が知っている軍歌と言えば、同期の桜と軍艦マーチくらい。おじいさんがうたっている歌は間違いなく日本語で、いかにも国を称えて進軍を鼓舞するような歌詞なのですが、私にはまったく聞き覚えのない歌でした。私の知らない私の国の歌を、かつて支配下においた台湾のおじいちゃんが私に歌ってくれることが、とても不思議であり、とてもありがたいと思ったことを覚えています。
このときの駅は「新竹」だったとかすかに記憶しているのですが、「新竹」と言えば90年代後半には台湾のシリコンバレーと言われた工業地帯。あの鄙びた駅が新竹というのは記憶違いだったのでしょうか。ホームから撮った写真が一枚あるはずなのでそのうちアップします。どこの駅だか分かる方教えてください。
台湾では、片倉氏の本に出てくるような変わった日本語も耳にしました。「べんとう(弁当)」「うんちゃん(運転手)」などです。下の写真は、どこかのお寺で私が撮ったものですが、「喧嘩(けんか)禁止」という注意書きがあります。これも日本統治時代に入った日本語だと思うのですが、いかがでしょうか。それにしても、寺で喧嘩というのは台湾では良くあることなのでしょうか。
(追記)中国語で「喧嘩」 xuan hua は、日本語の、騒々しい、大声で騒ぐの意味だそうです・・・http://blogs.yahoo.co.jp/mautano5/8107918.html
日本語じゃないですね。私の勘違いでした。済みません・・・
(アマゾンの内容紹介より引用)
50年間の統治で、日本と日本人が築いた数々の事物は、いまもこの地に生きている。歴史的建造物、産業遺産から、日本語、日本精神まで、台湾が「保存」しておいてくれたという奇跡を、われわれ日本人は見逃してはならない。台湾を愛し、日本の名残を求めて台湾全土を踏破した著者による空前の「日本遺産」ガイド。
(引用終わり)
在台湾10年超のライター片倉氏が、自分の足を使って台湾各地を歩き回り、地元の人に自らインタビューし、徹底的に調べた上で書いた渾身の一冊。地元の人に義愛公として祀られている森川巡査の話、皇民化運動のシンボルになった原住民少女サヨンの話、元日本軍将校であることを隠し蒋介石の軍事顧問として活躍した白団の話、どれもとても興味深い。
後半にまとめられている、台湾語または部族語に取り入れられ台湾に残っている日本語のコーナーも面白い。「テンプラ」(さつま揚げの意味)、「ゆっくりね」、「あいのこ」、「運動会」、「セイロガン」、「シナジン」、「おじさん・おばさん・奥さん・アニキ」、「校長先生」、「ケダモノ」などなど。
戦前日本統治時代に生まれた日本語教育世代は高齢化が進みどんどん少なくなっている。それとともに台湾に生きている日本の文化も失われていくのが非常に残念だ。
* kmの見た「台湾に生きている日本」
初めて台湾に行ったのは95年。まだ羽田から就航していた中華航空でインドネシアに行く途中で台北にストップオーバーしました。当初予定していた台南行きは、台風接近のため諦め、行く先は特に決めず台北から鈍行列車で南に向かいました。戦前の日本を思わせるような懐かしい光景に惹かれて列車を降りたのは、新竹あたりだったと思います。
ホームで写真を撮っていると、台湾人のおじいさんが「日本人ですか」と日本語で声を掛けてきました。なぜ私が日本人だと分かったのか不思議でしたが、もっと不思議に思ったのは、私と日本語を話せることがうれしくて仕方がないという彼の様子でした。日本語教育を受けた世代であるとしても、戦時中の忌まわしい思い出から日本語を聞きたくないと思っているアジアの人たちは多いし(→ 私が韓国で食堂からつまみ出された話)、戦後日本語を使う機会がなければ忘れてしまうはずだからです。
何を話したのかは覚えていませんが、私達が使うことのない古めかしい語彙が混じるほかは、訛りもなくきちんとした日本語を流暢に話すのにとても感動しました。鄙びた駅のホームの端っこでそのおじいさんは、私に日本の軍歌を2曲歌ってくれました。けれど、私が知っている軍歌と言えば、同期の桜と軍艦マーチくらい。おじいさんがうたっている歌は間違いなく日本語で、いかにも国を称えて進軍を鼓舞するような歌詞なのですが、私にはまったく聞き覚えのない歌でした。私の知らない私の国の歌を、かつて支配下においた台湾のおじいちゃんが私に歌ってくれることが、とても不思議であり、とてもありがたいと思ったことを覚えています。
このときの駅は「新竹」だったとかすかに記憶しているのですが、「新竹」と言えば90年代後半には台湾のシリコンバレーと言われた工業地帯。あの鄙びた駅が新竹というのは記憶違いだったのでしょうか。ホームから撮った写真が一枚あるはずなのでそのうちアップします。どこの駅だか分かる方教えてください。
台湾では、片倉氏の本に出てくるような変わった日本語も耳にしました。「べんとう(弁当)」「うんちゃん(運転手)」などです。下の写真は、どこかのお寺で私が撮ったものですが、「喧嘩(けんか)禁止」という注意書きがあります。これも日本統治時代に入った日本語だと思うのですが、いかがでしょうか。それにしても、寺で喧嘩というのは台湾では良くあることなのでしょうか。
(追記)中国語で「喧嘩」 xuan hua は、日本語の、騒々しい、大声で騒ぐの意味だそうです・・・http://blogs.yahoo.co.jp/mautano5/8107918.html
日本語じゃないですね。私の勘違いでした。済みません・・・
2009年3月26日木曜日
サモア 咬まれたらどうする?
サモア 咬まれたらどうする?
・ 発病後の死亡率はほぼ100%で、確立した治療法はない。
・ 毎年世界中で5万人の死者
・ 脳神経や全身の筋肉が麻痺を起こし、昏睡期に至り、呼吸障害によって死亡
なんの病気だか分かりますか?
もう少しヒントを出すと:
・ 英語の病名はRabies、通称Hydrophobia
・ 恐水症状(水などの液体の嚥下によって嚥下筋が痙攣し、強い痛みを感じるため、水を極端に恐れるようになる症状)
南太平洋のサモアは美しい海に囲まれた平和な島々。大型野生動物もすんでおらず、旅行者が身の危険にさらられることはまずありません。そんなサモアで気をつけるべきは2つ。1)酔払と2)犬です。
サモアの首都アピアは夜になると犬の吼える声が響き渡ります。まるで狼のいる森でキャンプしているような気分になるほどです。サモア人でも野犬を問題視しており、サモアのマノノ島では犬の飼育禁止・完全駆除を実施していているくらいです。サモアの北、トケラウ諸島でも犬は禁止で、子豚がペット代わりに可愛がられていました。
トケラウ諸島から戻り、ニウエ行きの飛行機を待つ私は、ウポル島一周ツアーに参加しました。前回サモア訪問では、サバイ島は一周したものの、ウポル島は町歩き・市場巡り・現地人と歓談に徹し、郊外に行く機会がなかったのです。
ツアー参加者は私の他、オールトラリア人5人(1家族と1カップル)。ガイドはサモア人にしては小柄で名前はスキッパ(s)、ドライバーは元マヌサモア(ラグビーのサモア代表チーム)で超巨漢。昔の首長の墓・パラダイスビーチ・小さな洞窟などを通って、景色のいい山道で私たちは写真休憩に入りました。
現地の人が3人、3匹の犬を連れて散歩しながらこちらに近づいてくるのが見えました。首輪がついていることから、野犬ではなく、飼犬ということが分かります。体の大きさは同じくらいで体色もそろって茶色。3つ子でしょうか。可愛い・・・。私はとっさにしゃがみこみ、両手をたたいて、犬に向かって手のひらを広げました。「おいで!」と。
すると、可愛い犬達、30m先から私に向かって駆けよってきました。・・・バウバウと吼えながら猛烈なスピードで・・・。首輪はあるのに紐はついていなかったのです。
血の気が引いた私は、あわてて犬に背を向けてツアー車の裏に回りこんで逃げようとしましたが、時すでに遅く、3匹の犬はものすごい息遣いとともに私に襲い掛かりました。耳や首を咬まれぬよう、頭の後ろで手を組む(=腹筋運動の手の構え)のが精一杯。直立していましたが、無防備な背中と下半身に鋭い爪がひっかかります。そして、一匹が私の左のふくらはぎに噛み付きました。私は「ぉぉぉおお!」と犬のように悲鳴を上げました。
飼い主が合図したのでしょう。すぐに犬達は私から離れ、飼い主の元へ戻りました。
出血を伴うような引っかき傷は体に残りませんでしたが、左ふくらはぎの咬みあとからは血がにじんでいます。痛みはひどくありませんが、致死率100%の狂犬病(冒頭の特徴)が頭をよぎります。
飼い主達は、そのまま山道を登っていきます。ニコニコしながら・・・。私の怪我を確かめたり、詫びに来ることもなく。男3人は、肩の後ろに猟銃を担いでいました。「飼い主」は猟師で、「飼犬」は猟犬だったのです。
ガイドのSが私のところにやってきました。ゆっくり歩いて。
s「あ、ちょっと咬まれた?」
私の生死がかかっているというになんと言う落ち着きでしょう。
s「心配しなくていいよ。サモアに狂犬病(のウィルスを持った犬)はないから」
km「本当?100%?」
s「100%本当だ」
サモア人のいい加減さには慣れっこの私。sの言葉を信用できません。
km「でも血が出ているよ。一応病院で診てもらいたい・・・」
s「大丈夫、大丈夫」
日本のツアーガイドなら、ツアー中断してでも私を病院に連れて行く場面ではないでしょうか。
でも、サモアでは違うようです。2メートル10cm超巨漢マッチョのドライバーが無言で上から見下ろしています。「かすり傷くらいでビービー言うんじゃねぇ」とでも言うように。
Sの次の行動に私は自分の目を疑いました。
ポケットからタバコを一本取り出し、巻紙をほぐして、中のタバコの葉を手のひらに広げ、私の傷口を前にしゃがむと、その葉をつまんでぺたぺたと傷口に貼り付けたのです。
s「これで大丈夫だから」
サモアに伝わる民間療法なのでしょうか。タバコ=ニコチン=毒、というイメージしかない私にとって、「タバコの葉療法」は迷信としか思えません。
けれど、サモアの病院じゃ、ワクチンなど置いていないかもしれないし、今日中に大病院のあるオーストラリア・ニュージーランドに出国できたとしても到着までにはウィルスが体内に回ってしまっているから、今さらじたばたしても仕方ない(km注:これは誤解です)。夜間あれだけ犬が吼えるこの島では毎年何人も犬に咬まれている筈で、それでサモア人が狂犬病の心配はないと言うのだから信じてよいはず、と自分に言い聞かせました。
ツアーのオーストラリア人達は、「あなた、大丈夫?」と声をかけて心配してくれましたが、内心おかしくて仕方がなかったのではないでしょうか。彼らにしてみたら、猟犬にちょっかい出して咬まれた間抜けな東洋人の話は土産話にもってこいです・・・。
咬まれてからワクチン摂取することもなく約3年がたちましたが、幸い狂犬病は発病していません。Sの言うとおり、サモアに狂犬病ウィルスはないか、または、タバコの葉が効いたのでしょう。
(サモア訪問 2006年5月、6月)
*犬に咬まれたときの正しい対応
1)とにかく洗浄
帰国後分かったことですが、仮に咬んだ犬が狂犬病ウィルスに感染していたとしても、狂犬病ウィルスは弱いので、傷口をすぐに石鹸で洗えば死滅するようです。ワクチンが入手できないようなところでも、パニックに陥ることなく、すぐに石鹸で洗うことを心がけましょう。
2)できればワクチン
また、ウィルスが体内に入ったあとでも潜伏期間の間にワクチン注射を受けられれば発病は回避できることが多いようです。100%死ぬというのはあくまで発病後のことです。私は、咬まれたあと急いで血清を打たないと死んでしまう毒蛇の場合と混同していたかもしれません。
詳しくはWiki参照。狂犬病患者の写真なども掲載されています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E7%8A%AC%E7%97%85
* タバコの殺菌作用
なお、タバコの葉には、殺菌作用と止血作用があるというブログ記事を見つけました。この記事が正しければ、ガイドのsの対応はまさに適切だったことになります。しかし、「タバコ 殺菌作用」で検索して見つかったのはこの記事一本だし、医学的根拠があるか疑問です。http://furifuri1029.blog85.fc2.com/?mode=m&no=5
* 犬に咬まれないための対策
ガイドのsに言われました。
「あのね、猟犬に背を向けたら追いかけられるんだよ。逃げる獲物を追うのが彼らの仕事なんだから。」
猟犬と分かっていたら私はそもそもちょっかい出していないのですが・・・。(鳥を狩るための猟犬なので特に大型ではありませんでした。)
1)戦う
猟犬ではなくて、普通の犬でも背を向けないほうが良いようです。石を投げるか、ぶつけるふりをするのが効果的らしい。石がなくても手持ちのコインでいけるかも知れません。
傘や杖や落ちている枝も役立つかもしれません。
でも私は闘って犬に逆切れされるのが怖いです。
2)守る・逃げる
とっさには難しいでしょうが、手ごろな木があったら登ってしまう手もあります。
短パンTシャツより、長袖長ズボンの方が身を守れるでしょう。私は事件当日短パンをはいていてふくらはぎは無防備でした。
逃げ場がなければ、首を噛み切られないように、首から上を防御することに徹したほうがよいかと思います。ジャンパーがあればそれを頭からかぶってしまうとか。
しゃがんで丸くなったら餌食になるだけだと思うので、私のように直立していた方がよいのではないでしょうか。たまたまかもしれませんが、この事件で上半身は無傷で助かりました。
* サモア人は超でかい。
サモア・トンガ・フィジーは小国ながらラグビー大国です。それもそのはず。男も女もやたらでかいのです。サモア人はとくに身長のみならず体重がすごい。角界で言えば、小錦はサモア系、武蔵丸はサモア/トンガ系。格闘家のマークハントはサモア/NZ、プロレスラーのザ・ロックもサモア系です。
* アンゴラ 野犬に囲まれる恐怖
25年続いた内戦を経てやっと平和になったアンゴラ。アンゴラの首都ルアンダには、冷戦下ソ連の影響を強く受けた無機質でビルが立ち並ぶ。ビルには砲弾、内戦の爪跡がくっきりと残されています。それらのビルがモナコ・フランスのコートダジュールのような海岸通に並んでいるのがシュールでした。メインストリートを抜けて、細く伸びた岬に入ると、店も人も少ない寂れたビーチが広がります。タクシーを降りて海辺を歩こうとタクシーを降りようとした私は、あきらめて車内にとどまることにしました。夥しい数の野良犬が、吼えながら、タクシーの扉のところに終結してきたのです。20頭はいたのではないかと思います。ここでタクシーを降りたら、サメの泳ぎ回るビーチに飛び込むようなもの。私はタクシーから降りずに、窓から写真をとって移動しました。
・ 発病後の死亡率はほぼ100%で、確立した治療法はない。
・ 毎年世界中で5万人の死者
・ 脳神経や全身の筋肉が麻痺を起こし、昏睡期に至り、呼吸障害によって死亡
なんの病気だか分かりますか?
もう少しヒントを出すと:
・ 英語の病名はRabies、通称Hydrophobia
・ 恐水症状(水などの液体の嚥下によって嚥下筋が痙攣し、強い痛みを感じるため、水を極端に恐れるようになる症状)
南太平洋のサモアは美しい海に囲まれた平和な島々。大型野生動物もすんでおらず、旅行者が身の危険にさらられることはまずありません。そんなサモアで気をつけるべきは2つ。1)酔払と2)犬です。
サモアの首都アピアは夜になると犬の吼える声が響き渡ります。まるで狼のいる森でキャンプしているような気分になるほどです。サモア人でも野犬を問題視しており、サモアのマノノ島では犬の飼育禁止・完全駆除を実施していているくらいです。サモアの北、トケラウ諸島でも犬は禁止で、子豚がペット代わりに可愛がられていました。
トケラウ諸島から戻り、ニウエ行きの飛行機を待つ私は、ウポル島一周ツアーに参加しました。前回サモア訪問では、サバイ島は一周したものの、ウポル島は町歩き・市場巡り・現地人と歓談に徹し、郊外に行く機会がなかったのです。
ツアー参加者は私の他、オールトラリア人5人(1家族と1カップル)。ガイドはサモア人にしては小柄で名前はスキッパ(s)、ドライバーは元マヌサモア(ラグビーのサモア代表チーム)で超巨漢。昔の首長の墓・パラダイスビーチ・小さな洞窟などを通って、景色のいい山道で私たちは写真休憩に入りました。
現地の人が3人、3匹の犬を連れて散歩しながらこちらに近づいてくるのが見えました。首輪がついていることから、野犬ではなく、飼犬ということが分かります。体の大きさは同じくらいで体色もそろって茶色。3つ子でしょうか。可愛い・・・。私はとっさにしゃがみこみ、両手をたたいて、犬に向かって手のひらを広げました。「おいで!」と。
すると、可愛い犬達、30m先から私に向かって駆けよってきました。・・・バウバウと吼えながら猛烈なスピードで・・・。首輪はあるのに紐はついていなかったのです。
血の気が引いた私は、あわてて犬に背を向けてツアー車の裏に回りこんで逃げようとしましたが、時すでに遅く、3匹の犬はものすごい息遣いとともに私に襲い掛かりました。耳や首を咬まれぬよう、頭の後ろで手を組む(=腹筋運動の手の構え)のが精一杯。直立していましたが、無防備な背中と下半身に鋭い爪がひっかかります。そして、一匹が私の左のふくらはぎに噛み付きました。私は「ぉぉぉおお!」と犬のように悲鳴を上げました。
飼い主が合図したのでしょう。すぐに犬達は私から離れ、飼い主の元へ戻りました。
出血を伴うような引っかき傷は体に残りませんでしたが、左ふくらはぎの咬みあとからは血がにじんでいます。痛みはひどくありませんが、致死率100%の狂犬病(冒頭の特徴)が頭をよぎります。
飼い主達は、そのまま山道を登っていきます。ニコニコしながら・・・。私の怪我を確かめたり、詫びに来ることもなく。男3人は、肩の後ろに猟銃を担いでいました。「飼い主」は猟師で、「飼犬」は猟犬だったのです。
ガイドのSが私のところにやってきました。ゆっくり歩いて。
s「あ、ちょっと咬まれた?」
私の生死がかかっているというになんと言う落ち着きでしょう。
s「心配しなくていいよ。サモアに狂犬病(のウィルスを持った犬)はないから」
km「本当?100%?」
s「100%本当だ」
サモア人のいい加減さには慣れっこの私。sの言葉を信用できません。
km「でも血が出ているよ。一応病院で診てもらいたい・・・」
s「大丈夫、大丈夫」
日本のツアーガイドなら、ツアー中断してでも私を病院に連れて行く場面ではないでしょうか。
でも、サモアでは違うようです。2メートル10cm超巨漢マッチョのドライバーが無言で上から見下ろしています。「かすり傷くらいでビービー言うんじゃねぇ」とでも言うように。
Sの次の行動に私は自分の目を疑いました。
ポケットからタバコを一本取り出し、巻紙をほぐして、中のタバコの葉を手のひらに広げ、私の傷口を前にしゃがむと、その葉をつまんでぺたぺたと傷口に貼り付けたのです。
s「これで大丈夫だから」
サモアに伝わる民間療法なのでしょうか。タバコ=ニコチン=毒、というイメージしかない私にとって、「タバコの葉療法」は迷信としか思えません。
けれど、サモアの病院じゃ、ワクチンなど置いていないかもしれないし、今日中に大病院のあるオーストラリア・ニュージーランドに出国できたとしても到着までにはウィルスが体内に回ってしまっているから、今さらじたばたしても仕方ない(km注:これは誤解です)。夜間あれだけ犬が吼えるこの島では毎年何人も犬に咬まれている筈で、それでサモア人が狂犬病の心配はないと言うのだから信じてよいはず、と自分に言い聞かせました。
ツアーのオーストラリア人達は、「あなた、大丈夫?」と声をかけて心配してくれましたが、内心おかしくて仕方がなかったのではないでしょうか。彼らにしてみたら、猟犬にちょっかい出して咬まれた間抜けな東洋人の話は土産話にもってこいです・・・。
咬まれてからワクチン摂取することもなく約3年がたちましたが、幸い狂犬病は発病していません。Sの言うとおり、サモアに狂犬病ウィルスはないか、または、タバコの葉が効いたのでしょう。
(サモア訪問 2006年5月、6月)
*犬に咬まれたときの正しい対応
1)とにかく洗浄
帰国後分かったことですが、仮に咬んだ犬が狂犬病ウィルスに感染していたとしても、狂犬病ウィルスは弱いので、傷口をすぐに石鹸で洗えば死滅するようです。ワクチンが入手できないようなところでも、パニックに陥ることなく、すぐに石鹸で洗うことを心がけましょう。
2)できればワクチン
また、ウィルスが体内に入ったあとでも潜伏期間の間にワクチン注射を受けられれば発病は回避できることが多いようです。100%死ぬというのはあくまで発病後のことです。私は、咬まれたあと急いで血清を打たないと死んでしまう毒蛇の場合と混同していたかもしれません。
詳しくはWiki参照。狂犬病患者の写真なども掲載されています。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%82%E7%8A%AC%E7%97%85
* タバコの殺菌作用
なお、タバコの葉には、殺菌作用と止血作用があるというブログ記事を見つけました。この記事が正しければ、ガイドのsの対応はまさに適切だったことになります。しかし、「タバコ 殺菌作用」で検索して見つかったのはこの記事一本だし、医学的根拠があるか疑問です。http://furifuri1029.blog85.fc2.com/?mode=m&no=5
* 犬に咬まれないための対策
ガイドのsに言われました。
「あのね、猟犬に背を向けたら追いかけられるんだよ。逃げる獲物を追うのが彼らの仕事なんだから。」
猟犬と分かっていたら私はそもそもちょっかい出していないのですが・・・。(鳥を狩るための猟犬なので特に大型ではありませんでした。)
1)戦う
猟犬ではなくて、普通の犬でも背を向けないほうが良いようです。石を投げるか、ぶつけるふりをするのが効果的らしい。石がなくても手持ちのコインでいけるかも知れません。
傘や杖や落ちている枝も役立つかもしれません。
でも私は闘って犬に逆切れされるのが怖いです。
2)守る・逃げる
とっさには難しいでしょうが、手ごろな木があったら登ってしまう手もあります。
短パンTシャツより、長袖長ズボンの方が身を守れるでしょう。私は事件当日短パンをはいていてふくらはぎは無防備でした。
逃げ場がなければ、首を噛み切られないように、首から上を防御することに徹したほうがよいかと思います。ジャンパーがあればそれを頭からかぶってしまうとか。
しゃがんで丸くなったら餌食になるだけだと思うので、私のように直立していた方がよいのではないでしょうか。たまたまかもしれませんが、この事件で上半身は無傷で助かりました。
* サモア人は超でかい。
サモア・トンガ・フィジーは小国ながらラグビー大国です。それもそのはず。男も女もやたらでかいのです。サモア人はとくに身長のみならず体重がすごい。角界で言えば、小錦はサモア系、武蔵丸はサモア/トンガ系。格闘家のマークハントはサモア/NZ、プロレスラーのザ・ロックもサモア系です。
* アンゴラ 野犬に囲まれる恐怖
25年続いた内戦を経てやっと平和になったアンゴラ。アンゴラの首都ルアンダには、冷戦下ソ連の影響を強く受けた無機質でビルが立ち並ぶ。ビルには砲弾、内戦の爪跡がくっきりと残されています。それらのビルがモナコ・フランスのコートダジュールのような海岸通に並んでいるのがシュールでした。メインストリートを抜けて、細く伸びた岬に入ると、店も人も少ない寂れたビーチが広がります。タクシーを降りて海辺を歩こうとタクシーを降りようとした私は、あきらめて車内にとどまることにしました。夥しい数の野良犬が、吼えながら、タクシーの扉のところに終結してきたのです。20頭はいたのではないかと思います。ここでタクシーを降りたら、サメの泳ぎ回るビーチに飛び込むようなもの。私はタクシーから降りずに、窓から写真をとって移動しました。
2009年3月25日水曜日
変わった名前
変わった名前編
コンゴ民主キンシャサ
私をいろいろ案内してくれたTにはコンゴ人でありながら中国語の名前の女友達がいるそうだ。両親がその発音が綺麗だと気に入ってつけたのだそうだ。なんという名前なのか聞いて見ると、「Sayonara」・・・おいおい、それは日本語じゃないか。意味も考えて名づけて欲しい。
ソロモン諸島ホニアラ
ソロモンのタクシードライバーは皆陽気で英語が話せるので、世間話が弾む。また会おう、と言って教えてくれた彼の名前は「デンマーク」。お父さんの友達にデンマーク人がいたらしい・・・。
南アケープタウン
彼の苗字は「April」。アパルトヘイト全盛期に白人の父と黒人の母との間に生まれた彼。白人の父の苗字での出生届出を役所が受け付けなかったという。そこで誕生月が4月の彼の苗字がAprilになったのだ。混血児の苗字としては誕生月の名前が良く用いられたらしい。
ナウル
私がオープンしたばかりの政府観光局を尋ねたのは、所長の第6子が誕生した直後だった。観光局初訪問の外国人ということで、私の苗字を子供の名前につけることになった。冗談で済んだのか、実際に届け出てしまったのかは分からない。
コンゴ民主キサンガニ
ボートで知り合った格闘技マスターの男。私を相手に実演してくるが、男の体の動きが速すぎて手も足も出ない。こんな奴に襲われたら一瞬で殺されるだろう。この男の名前を聞くと「Dieu-Mercy」(神様ありがとう・神の慈悲?)。なんとも似つかわしくない。
ニジェール ニアメ
バスターミナルで会ったガンビア出身の青年の名は「Happy」。仏語圏ニジェールで英語を話してくれる彼の存在はありがたかった。ガンビアでは仕事が見つからないからニジェールに来たというが、ニジェールは世界最貧国の一つ。
コンゴ民主キサンガニ
リサラ(独裁者モブツの出身地域)出身のなぞの商人。武器でもウランでもなんでも入手できるから取引相手の日本企業を紹介してくれとうるさい。目つきが鋭く腹黒そうな彼の名前を聞いて笑うしかなかった。名前は「Innocent」(イノサン、純朴)
ジンバブエ ハラレ
バスが止まったドライブインの軽食屋のキッチンでモシ(キャッサバを蒸して捏ねたもの)を作っていた女性。笑顔が素敵な彼女の名前は、「Pretty」。若いうちはいいけど、50,60歳になってその名前は・・・
イラン テヘラン
日本語で声をかけてくれたイラン人。40歳過ぎの腹の突き出た髭親父なのに、瞳は子供のようにきらきら、天使のような笑顔。私の荷物を担いで目的地まで案内してくれた。富山で出稼ぎしていたこのおじさんの名前は「浜さん」。多分本名はアハマドで、富山の人には覚えにくかったのだろう。
パキスタン クウェッタ
アフガン難民の少年の名は、「ヤセル・アラファト」だった。対イスラエル闘争のPLOリーダーの名前は、対ロシア闘争に明け暮れるアフガニスタンで人気があったのかもしれない。2001年以降は「ビンラディン」が人気になっているかも。
インド xx市
同級生だったインド人A君。苗字はインド人には多い「Kumar」。ところが、彼が言うに、本当の苗字は違うのだという。パスポートを受け取ったら役所の手違いでこの名前になったのだという。以来公式書類には「Kumar」と書かなければいけなくなったA君、一人だけ家族と違う苗字になってしまった。IncredibleIndiaである。
ガーナ アクラ
道案内してくれた少年の名前は「コフィ」。その友達の名前も「コフィ」。ガーナ出身の国連事務総長「コフィ・アナン」にあやかってブームになったのだろう、と一瞬思った。しかしよく考えると、その子達が生まれた頃にはアナンはまだ事務総長ではなかったはず。おかしいな。あとで知ったところでは、ガーナでは生まれた曜日で名前が決まる(但し民族にもよる)。コフィは金曜日生まれの男の名前だ。
インドネシア バリ
バリのインターネットカフェ。フルーツ生ジュースを注文できるお気に入りのインターネットカフェ。顔なじみになったマネージャーの名前は「ワヤン」。バリにはやたらとこの名前が多いね、というと教えてくれた。ワヤンは長男につける名前で、日本風に言えば「太郎」。次郎・三郎・・・にあたる名前もあるそうだ。面白いのは、6男になると再び「ワヤン」に戻るそうだ。兄弟が6人以上の家族では同じ名前の子供がいることになる。
ほかにもたくさんありましたが、思い出したときに随時追加します。
コンゴ民主キンシャサ
私をいろいろ案内してくれたTにはコンゴ人でありながら中国語の名前の女友達がいるそうだ。両親がその発音が綺麗だと気に入ってつけたのだそうだ。なんという名前なのか聞いて見ると、「Sayonara」・・・おいおい、それは日本語じゃないか。意味も考えて名づけて欲しい。
ソロモン諸島ホニアラ
ソロモンのタクシードライバーは皆陽気で英語が話せるので、世間話が弾む。また会おう、と言って教えてくれた彼の名前は「デンマーク」。お父さんの友達にデンマーク人がいたらしい・・・。
南アケープタウン
彼の苗字は「April」。アパルトヘイト全盛期に白人の父と黒人の母との間に生まれた彼。白人の父の苗字での出生届出を役所が受け付けなかったという。そこで誕生月が4月の彼の苗字がAprilになったのだ。混血児の苗字としては誕生月の名前が良く用いられたらしい。
ナウル
私がオープンしたばかりの政府観光局を尋ねたのは、所長の第6子が誕生した直後だった。観光局初訪問の外国人ということで、私の苗字を子供の名前につけることになった。冗談で済んだのか、実際に届け出てしまったのかは分からない。
コンゴ民主キサンガニ
ボートで知り合った格闘技マスターの男。私を相手に実演してくるが、男の体の動きが速すぎて手も足も出ない。こんな奴に襲われたら一瞬で殺されるだろう。この男の名前を聞くと「Dieu-Mercy」(神様ありがとう・神の慈悲?)。なんとも似つかわしくない。
ニジェール ニアメ
バスターミナルで会ったガンビア出身の青年の名は「Happy」。仏語圏ニジェールで英語を話してくれる彼の存在はありがたかった。ガンビアでは仕事が見つからないからニジェールに来たというが、ニジェールは世界最貧国の一つ。
コンゴ民主キサンガニ
リサラ(独裁者モブツの出身地域)出身のなぞの商人。武器でもウランでもなんでも入手できるから取引相手の日本企業を紹介してくれとうるさい。目つきが鋭く腹黒そうな彼の名前を聞いて笑うしかなかった。名前は「Innocent」(イノサン、純朴)
ジンバブエ ハラレ
バスが止まったドライブインの軽食屋のキッチンでモシ(キャッサバを蒸して捏ねたもの)を作っていた女性。笑顔が素敵な彼女の名前は、「Pretty」。若いうちはいいけど、50,60歳になってその名前は・・・
イラン テヘラン
日本語で声をかけてくれたイラン人。40歳過ぎの腹の突き出た髭親父なのに、瞳は子供のようにきらきら、天使のような笑顔。私の荷物を担いで目的地まで案内してくれた。富山で出稼ぎしていたこのおじさんの名前は「浜さん」。多分本名はアハマドで、富山の人には覚えにくかったのだろう。
パキスタン クウェッタ
アフガン難民の少年の名は、「ヤセル・アラファト」だった。対イスラエル闘争のPLOリーダーの名前は、対ロシア闘争に明け暮れるアフガニスタンで人気があったのかもしれない。2001年以降は「ビンラディン」が人気になっているかも。
インド xx市
同級生だったインド人A君。苗字はインド人には多い「Kumar」。ところが、彼が言うに、本当の苗字は違うのだという。パスポートを受け取ったら役所の手違いでこの名前になったのだという。以来公式書類には「Kumar」と書かなければいけなくなったA君、一人だけ家族と違う苗字になってしまった。IncredibleIndiaである。
ガーナ アクラ
道案内してくれた少年の名前は「コフィ」。その友達の名前も「コフィ」。ガーナ出身の国連事務総長「コフィ・アナン」にあやかってブームになったのだろう、と一瞬思った。しかしよく考えると、その子達が生まれた頃にはアナンはまだ事務総長ではなかったはず。おかしいな。あとで知ったところでは、ガーナでは生まれた曜日で名前が決まる(但し民族にもよる)。コフィは金曜日生まれの男の名前だ。
インドネシア バリ
バリのインターネットカフェ。フルーツ生ジュースを注文できるお気に入りのインターネットカフェ。顔なじみになったマネージャーの名前は「ワヤン」。バリにはやたらとこの名前が多いね、というと教えてくれた。ワヤンは長男につける名前で、日本風に言えば「太郎」。次郎・三郎・・・にあたる名前もあるそうだ。面白いのは、6男になると再び「ワヤン」に戻るそうだ。兄弟が6人以上の家族では同じ名前の子供がいることになる。
ほかにもたくさんありましたが、思い出したときに随時追加します。
登録:
投稿 (Atom)
